午後十一時四十分。観測機材の前に置かれた回転椅子に座り、うとうととしていた岡林は、薄く開かれたまぶたの隙間から、ちらつく光が入ってくるのに気がついた。
「たたたたたたっ、たいへんだぁー!」
岡林は階上の仮眠室へ駆け込むと、簡易ベットの上で休んでいた松下の体を揺すりながら叫んだ。
「松下さん! 起きて起きて! たいへんなんだから!」
「うーう、なんだぁ岡林、また寿司でも食い損なったか」
「いいから早く早く! 早く下に来て!」
松下は目をこすりながら立ち上がった。それを確認した岡林は今度は階下ヘ駆け降りて行き、ちらつく光の源を横目でにらみながら電話機を引っ掴むと、短縮ダイヤルのスイッチを押した。
ちょうどその時刻、沢木を乗せた横須賀線の電車は、東戸塚の駅を出るところだった。月曜日の遅い時間の電車とあってか、彼の周囲には人影はなく、その車内は閑散としていた。沢木と渡辺は東京駅で別れ、沢木は電車で葉山の本部へ、渡辺は車で本社へと、それぞれ戻ることにしたのだ。
携帯電話機を耳に当てた沢木は、そこから発せられた大声に思わず耳を背けた。
「岡林か? どうした」
「たたたたたたっ、たいへんなんですよ!」
「何が、何が起こった!」
その答えをしたのは松下だった。彼は外部スピーカーとマイクのスイッチを入れ、動転した岡林に変わって答えた。
「抽出波に変化が現れてる。周波数は―」
松下は目を凝らし、ちらつく光の源―人美の脳波を映し出すCRTに表示された数値を読み取った。
「およそ六〇ヘルツ、振幅は激しく増減している」
沢木は腕時計に目をやった。この時間人美はおそらく寝ているはずだ。
「夢? 夢でも見てるんですか?」
「おそらくそうだろう。しかし、この脳波は異常だ」
「分かりました。とにかく観測を続けてください。私は今横須賀線の車中です。後一時間ぐらいでそちらに行けると思いますので」
「分かった。状況が変化したらまた報告する」
沢木は通話スイッチをオフにすると、すぐにオンにしてウッドストックに電話した。
「沢木です。何か変わったことはありませんか」
答えたのは森田だった。
「いえ、何もないですが。どうかしましたか」
「こちらの観測状況に変化が現れています。どんな些細なことでも構いません、何かあったらすぐにチャーリーに連絡してください」
沢木は次ぎに白石邸に電話した。沢木の耳元で呼び出し音が何回、何十回と鳴った。それは永遠に続くかのごとく、長い長い時間に感じられた。
これだから年寄りは困るんだ。早く出ろ
沢木はいらつき、毒づいた。
「もしもし、白石だが」
安眠を妨げられたその声も、幾分いらつき気味だった。
「沢木です。人美さんの脳波に変化が発生しました」
「何だって、どういうことだ」
「今は何とも、それより会長に確認してもらいたいことがあります」
「何だ」
「人美さんの部屋にそっと近づいて行って、中のようすをうかがって欲しいんです。ただし、どんな状況であっても、こちらの指示があるまでは絶対に部屋の中には入らないようにしてください」
人美はうなされていた。激しく寝返りをうちながら、全身に汗をかき、呼吸も荒かった。それはうなされてるというよりも、苦しみ悶えているといったほうが適切だった。人美にあの悪夢が再び襲って来たのだ。
ワイヤレスホンを右手にしっかりと握り締めた白石は、人美の部屋のドアの近くまでたどり着いた時、その苦痛に歪んだ声を聞いた。彼は思わず後退りをしながら、小さな声で沢木に言った。
「苦しんでるようだ」
「ええ、私にも聞こえました」
「どうする、うなされてるのか? いや、何かの発作―もしかしたら怪我をしたのかも。だったら待ってはおれんぞ!」
「もう少し待ってください。部屋を離れて待機していてください。いいですね」
「ああ、だがなるべく早くしろ」
沢木はチャーリーに電話した。
「松下さん、人美は声をあげて苦しんでるようです。何か予測はできませんか!?」
沢木は車窓の外を流れる陳腐な夜景を見ながら遅い電車を呪っていた。電車は今、大船駅のホームに滑り込もうとしている。時刻は午後十一時五十二分。横須賀線は定刻どおりに運行されていた。
「何とも言えない。何しろこんな脳波を見たのは生まれて初めてだ。エネルギーが大き過ぎる! こんなエネルギーは脳波にはないはずなんだ!」
松下は自分の目に飛び込んでくるちらつく光に当惑されていた。
「人美の身体や精神に対して危険ということは?」
「分からん! 沢木君、一度この状態にストップをかけよう。ゆっくりとこれを分析し、対処法を考えるべきだ!」
「分かりました」
再び白石に電話する。
「会長。人美の部屋に入ってください!」
白石はその言葉を最後まで聞き終わらないうちに電話機を放り出すと、人美の部屋に突入した。人美は苦しんでいる、悶えている、苦しみ悶えている。
「人美君! 人美! 大丈夫か! おい、しっかりしろ!」
白石は人美の両肩を掴み、激しく揺すりながら叫んだ。
「もうだめだ! 終わりだ!」
人美は泣き叫んだ。
「あなたは誰! 誰なの! 助けてー!」
人美は激しく口を開け閉めしている。
舌を噛む
白石はとっさにそう判断し、人美の頬を思い切りひっぱたいた。
ピシャッ!―叫び声が止んだ。
人美はぐったりとしながらも、徐々にまぶたを開けていった。
「人美君、大丈夫か」
白石はそっと声をかけた。
「ああ、おじさま。怖かった。私とても怖い夢を見たの」
人美は鼻を鳴らしながら静かに涙を流した。
「もう大丈夫だ。夢は終わったよ」
白石は人美の頬にそっと手を寄せると、その頬を流れる滴をぬぐってやった。
日付が変わったころ、沢木を乗せた電車は鎌倉駅を出たところだった。いらいらと落ち着かない沢木のもとに、やっと連絡が入った。
「ああ、会長。心配しましたよ」
「悪い夢にうなされていたようだ。しかも、かなりの激しいうなされようで、わしは舌でも噛み切るんじゃないかと思ったほどだよ」
「そんなにですか」
「ああ、しかしもう大丈夫だ。今家内と一緒に居間でココアを飲んでいるよ。落ち着きを取り戻してる」
沢木は深い溜め息を吐いた。彼をずっといらだたせていたもの―守るべきものを守れないこと―その懸念が溜め息とともに吹き出した。
「そうですか、安心しました。何だか偉く疲れてしまいましたよ」
「何を言っとるんだ、いい若いもんが。はははははは……」
白石は豪快な笑い声を発していた。その声に沢木はより安堵の気持ちを深くした。
「ところで会長、明日―いえ、もう今日ですね。午前七時三十分にお迎えに参りますのでそのつもりでいてください。詳しい話しはその時にまた……」
一方、本部では早くも松下によるデータの解析作業が始まっていた。岡林は今だ興奮冷めやらずといった趣で、盛んに松下に向かって口を動かしていたが、手だけは松下に命じられたとおり―データの検索やプリント・アウトをすることなど―に着実に動かされていた。
人美は千寿子の腕に肩を抱かれながら、ココアをすするようにしてゆっくりと飲んでいた。頬には涙の跡がつき、目は今だに真っ赤だった。人美を抱いた千寿子の腕には微弱な振動が伝わり、まだ悪夢から完全に覚めきっていないことを知らせていた。
沢木を乗せた電車は午前十二時九分に逗子駅に到着した。ホームに降り立った沢木はすかさずセブンスターを口にくわえ、その煙を深く深く吸い込むと、「ふぅー」と溜め息混じりに吐き出した。彼は日に二十本弱のタバコを吸うが、そのほとんどは思考の手助けをするものである。彼は物事を考える時にはタバコの煙をまとわせる。しかし、今くわえたタバコは、ただ単にほっとしたいがためだった。
今日は忙しい一日だった。人美、そしてプロメテウス。だが始まったばっかりだ
ゆっくりと歩く沢木を尻目に、タクシーの順番を争う人々が、彼の横を慌ただしく駆け抜けて行った。
続く…
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