日本に向かっていた二機のジャンボジェット機は、太平洋上空を緯度にして一度の距離を置き並行に飛行していた。だが、この内の一機のINS(慣性航法装置)の入力データに誤りがあったため、二機は空中で接触してしまった。入力ミスを犯したほうの機はそのまま飛行を続け、ロサンゼルス空港に引き返すことができたが、もう一方の機は水平尾翼の片方と垂直尾翼を破損したために、太平洋に墜落した。
ダメージを受けたジャンボジェット機の機長は、自機がコントロール不能であることを知ると同時に国際救助信号を発する装置のスイッチを入れた。この信号を最初にとらえたのはアメリカの軍事衛星ネプチューンだった。ただちに近海を移動中のアメリカ海軍第七艦隊所属の機動部隊(航空母艦を軸に二隻の巡洋艦で構成されていた)に救助命令が出されたが、航母から発進したヘリコプターが現場に到着した時には、ジャンボの破片が海を漂うのみであった。
沢木の婚約者である水野美和は、海の藻くずとなったほうのジャンボジェット機に乗っていた。数日間に渡る捜索活動のかいもなく、彼女は行方不明者から死亡者へと変更された。
沢木に事故の第一報が入ったのは、彼がMITの研究室で作業をしている時だった。ボストン・ポップスのチケットを取ってくれたアルバートが、泡を食って駆け込んで来たのだ。
「アル、冗談だろう」
これが沢木の第一声だった。しかし、アルの表情は真実を雄弁に物語っており、それを見て取った沢木の脳裏には混沌とした感情が沸き起こった。
アルがテレビをつける。すると、アナウンサーは行方不明者のリストを読みあげていた。何人かの名が読みあげられた後、「ミワ・ミズノ」とアナウンサーは言った。沢木はただ呆然と、うつろな目でテレビの画面を眺めているのみだった。
信じられない。美和は生きている! きっと助け出される
沢木はかすかな望みを持っていた。しかし、その望みも虚しく、捜索活動は一週間後に打ち切られた。
アパートのテレビでそのことを知った沢木は、夢遊病者のように街へと出て行った。チャールズ川に掛かるチャールズ・ブリッジを渡り、灰色の雲が立ち込める薄暗いボストンの街を歩き続けた。目に映るボストンは―摩天楼も、歴史ある教会も、行き交う人々も、今ではくすんで見えた。ついこの間までの活力や希望、夢、そんなものが街からも自分自身からも抜けてしまったかのようだ。そして、沢木はただ歩き続けた。
日が沈み暗闇がボストンを包み始めていたころ、沢木はウォーター・フロント公園のベンチに海を眺めながら座っていた。しばらくすると、二人の警官が彼の前にやって来て、「どうかしたのかね?」と尋ねた。しかし、沢木は答えなかった。同じ質問を警官が繰り返す。彼は、どうもしません、と答えるつもりだった。だが、警官を見つめ、口を動かした途端、顎が激しく震え出し、顔はくしゃくしゃとなり、涙がとめどもなく溢れ出し、号泣した。これまで一滴の涙も見せなかった彼は、この時ついに崩れたのだ。警官たちはただ困惑し、彼を見続けていた。
日本に戻った沢木は、亡骸のないまま行われた美和の葬儀に参列した。彼は葬儀の間中、誰とも口を利かなかった。美和の両親とも、美和の死をしのんで集まった高校時代の同級生たちとも、誰とも、一言も話しをしなかった。口を動かせばまた泣き崩れ、深い悲しみの谷底へと落ち、二度とは上がってこれないように思えたからだ。
葬儀が終わると、沢木は真直に実家に帰った。そして、工場の片隅に置かれた、あの夏の日の思い出が詰まった飛行機の椅子に腰掛けた。いくつかの光景が彼の脳裏を駆け巡った。初めて会話をした放課後の教室、ピアノと飛行機、父が死んだ時の励ましの言葉、世田谷公園でのプロポーズ、ボストンでの一週間。沢木は思い出しながら微笑んだ。しかし、それらが過去のものであり、もう二度とはやって来ない時間だと知ると、彼は鼻をすすりながら涙をにじませ、静かに、静かに、ずっと泣き続けたのだった。
沢木は美和を失った悲しみの中で、自らも死ぬことを考えた。二人の思い出の飛行機に乗り、ひたすら水平線を目指して飛び続け、いつか燃料が尽きた時、彼女と同じように海に落ちて死ぬことを考えたのだ。しかし、彼は死ねなかった。死を選ぶことは自分自身の夢を放棄することに等しい。今ここで自分が夢を諦めてしまうことは、彼女との楽しかった過去を捨ててしまうように思え、なおかつ、彼女はそんなことを望みはしないだろうという想いが勝ったからだった。沢木はそう考え、美和の分までも生き、自分自身の夢を、そして美和との約束を果たそうと、ボストンへと引き返したのだった。
絶望の中から己の生きる道を再認識した沢木は、ひたすら研究に没頭した。そして、ついにEFC論理は完成し、SFOSが誕生した。これを期に彼は世にいう地位と名声、さらは財産をも手に入れた。沢木のこうした活躍を端で見ていた人々は、彼はもう悲しみを乗り越えた、と思っていただろう。しかし、彼の心の片隅には八年という歳月をへた今も、美和の思い出が潜んでいた。普段は明るく振る舞う彼も、ふとしたきっかけで彼女のことを思い出し、ふうっと深い溜め息を吐く日々を送って来たのだ。そして、その度に美和を守れなかったという思いに無念さを抱くのだった。
どのくらいの時間がたったのだろう―ベットに横たわりながら自分の過去を振り返っていた沢木は、来訪者により“現在”に呼び戻された。
「思ったより元気そうだな」
その声は片山だった。時刻が午後五時を過ぎた今、白石邸での討議を終えた片山は、親友の身を案じて見舞いにやって来たのだった。
「とても一度死んだ人間には見えないよ」
片山の言葉に、沢木は小さな笑みを返した。
「沢木、一体何があったんだ?」
沢木は悪夢の一部始終を片山に話して聞かせた。聞き終わると、片山は悪夢のことでも人美のことでもない、こんな質問を口にした。
「お前は今でも水野さんのことを想っているのか?」
尋ねられた者は深呼吸を一つ吐き答えた。
「ああ、そうだよ」
「そうか。それはそれで立派なことだと思うよ。水野さんもさぞや幸せだろう」
片山は以前から沢木に言いたかった言葉を口にした。
「で、秋山のことはどうなんだ?」
「どう? って」
「好きなのか? 嫌いなのか?」
「そりゃ、好きさ」
「だったら! なぜ彼女に好きだと言ってやらないんだ。彼女の気持ちが分からないほど鈍感じゃないだろう」
「嫌なんだよ」
「何が?」
「愛する人を失うことだよ」
片山は呆れた顔で答えた。
「随分悲観的なものの考え方だな」
言われるまでもない、そんなことは沢木にもよく分かっていた。しかし、愛する人を失った時のあの虚無感を、もう二度とは味わいたくない。そんな想いが意識的とも無意識的ともつかぬうちに働き、これまで秋山に対して一定の距離を置いてきたのだ。
「なあ、沢木。それじゃあ、仮に今秋山が死んだらどうする?」
「ええ」
「お前にとって秋山は、既にかけがいのない存在なんじゃないのか? その気持ちを押さえ込み、失うのが怖いの何のと言ってみたってしょうがないじゃないか」
「……」
「もしも今、俺の彼女が死んだとしたら―そう考えれば沢木の気持ちも何となく分かるよ。でもなぁ沢木、俺は思うんだが、人間死んじまったらおしまいだろうが。水野さんのことをどんなに想ってみても、その人はもういない人なんだ。愛情とか、友情とかっていうものは、生きている人間にこそ注ぐべきものなんじゃないのか? 今を一緒に生きる人こそが、自分を想ってくれる人こそが、なにより惜しみない愛情の対象になるんじゃないか。沢木、そうは思わないか?」
沢木は黙っていたが、その目は心なしか潤んでいるように片山には見えた。
「すまんなぁ沢木、勝手なことを言って」
「いや、君の言うとおりだよ。そうだね、生きてる人間にこそだね……」
片山はその言葉を聞くと、病室を静かに出て行った。そして、病院の廊下を歩きながら思った。
沢木、早く元気になれよ。お前を待ってるのは秋山だけじゃない。俺も、みんなも、そして、あの娘も待ってるんだから…
続く…
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