人美はなかなか寝つかれずにいた。ベットから起き上がり、窓越しに夜空を見上げると、半分欠けた月には黒い雲が薄く掛かり、幼いころに見た怖い映画を思い出させた。途端に不安な気持ちが込み上げてくる。何だろう? と思った途端、今度は沢木のことが頭をよぎる。
まさか、沢木さんに何か
人美は電話をかけに行こうとした。しかし―
いけない、電話番号なんて知らないじゃない
人美はパジャマを脱ぎ捨て、シャツとジーンズに着替えると慌てて部屋を出て行った。 トイレから寝室に戻ろうとした白石会長は、階段のところで人美に出くわした。
「おや、人美君。どうしたのかね?」
人美は階段を駆け下りながら答えた。
「ちょっと出てきます」
「出てきますって、こんな夜中にどこへ行くんだ!?」
白石は人美の後を追って走った。
「あーあ、風呂に入りたいなぁ。汗臭くて、これじゃ女の子は近寄らないよ」
進藤のその言葉に渡辺は答えた。
「元々そんな女はいないだろう」
ちぇっ! 嫌なおやじ
「明日になれば森田たちと交代できる。もう少しの辛抱だ」
「もう少しって、人美さんの監視はまだ続くんでしょう。そしたらまた車住いだぁ」
「進藤、嫌ならいつでも辞めろ。俺はいっこうに構わん」
「普通、そこまで言いますか。だいだい室長は―」
「話しは後だ。車を出せ」
「えっ」
進藤が前方を見ると、人美が自転車で走って行く後ろ姿が見えた。やや遅れて息を切らした白石会長。
渡辺は車中から白石に声をかけた。
「どうしました?」
「分からん。だが、かなり慌てて出て行った」
「そうですか、後は任せてください。連絡します」
「うむ。頼んだぞ」
人美の視界に沢木の家が入ると、寝室と居間の電気がついているのが確認できた。そして、自転車の速度を落としながらしばし考えた。
やっぱり止めようかなぁ。でも、せっかく来たんだから―姿を見れば安心だものね
人美は自転車を降りると、それを押しながら玄関に近づいて行った。
沢木の家へと続く一本道を曲がったところから、黒いスカイラインはヘッドライトを消しゆっくりと人美の後を追っていた。
ハンドルを握る進藤が言った。
「こんな時間に沢木さんに何の用だろう? まさかあの二人、危ない関係になっちゃうんじゃ……」
「それならいいんだがな」
「よかーないですよ! 神奈川県の青少年保護条例では―」
渡辺の目には、自転車を押しながら歩く人美の姿と、沢木の家の前に止まる白いバンが映っていた。
「進藤、お前の言いたいことの結末はとっくに分かってる。それよりもう少し近づいたら車を止めろ」
スカイラインは沢木の家から二〇メートルほど離れたところで止まった。渡辺は双眼鏡を目に当て、白いバンのナンバー・プレートを見た。
こんな時間に品川ナンバーか
「よし、中のようすを探る」
沢木は鮫島に監視されながら、寝室のパソコンを使い遺書を打っていたが、頭の中はこの危機からいかに脱出するか、その一点に絞られていた。
どうする?
彼はキーボードの横にあるタバコを見た。
タバコの火を押しつけてひるんだ隙に窓から脱出するか? いや、プロのテロリストにそんな小細工が通用するわけない
次にディスプレイの脇にあるスプレー式のOAクリーナーが目に入った。
こいつに火をつければちょっとした火炎放射器だな。しかし、銃を乱射されたら一巻の終わりだ―ああ、そうだ。引き出しの中にナイフがあったんだ。んー、これもだめだな。こんな奴と白兵戦だなんて、結果は目に見えてる
そんなことを沢木が考えていると、ドア・チャイムが鳴った。
鮫島が問い質した。
「誰だ」
沢木が首を横に振ると、眼鏡の男が入って来て言った。
「女だ。高校生くらいの」
人美?
鮫島は鼻で笑った後に沢木に言った。
「貴様も罪な奴だな。よし、出ろ。妙な真似をしたらすぐに撃つ、いいな」
沢木が玄関のドアを開けると、そこには予想どおり人美が立っていた。
「人美さん、どうしたの」
「あの―」
沢木は人美に話す暇を与えずに言葉を続けた。
「こんな遅くに出歩いちゃだめだよ。早くお帰りなさい」
鮫島は眼鏡の男に指示した。
「持ち駒は多い方がいい。あの娘を捕まえろ」
人美は沢木が無事なことに安心はしたものの、いつもと違う冷たさのある言葉にがっかりした。
やっぱり来なければよかった
「すみません、私帰ります」
「それがいい」
人美はドアを閉めようとした。その時、窓から出て人美の背後に回った眼鏡の男が、彼女を家の中へと押し込んだ―「きゃあー」
渡辺と進藤は人美の悲鳴を聞き取った。
「俺は裏へ回る、お前は玄関から行け。ぬかるなよ」
「了解」
沢木は人美を押さえる眼鏡の男に飛び掛かったが、彼の後ろにいた太った男に居間の方へと投げ飛ばされた。そして、長髪の男に再び後ろ手に手錠をかけられた。
この時、玄関ドアがぱっと開き進藤が飛び込んで来た。眼鏡の男は片手で銃を構えたが、人美が暴れたために狙いが定まらなかった。果敢に飛び掛かる進藤。しかし、太った男は進藤の大腿部に二発の九ミリ弾を撃ち込み、さらに、銃を使って彼の頭部を殴打した。
渡辺が台所にある勝手口のドアを蹴破って家の中に突入しようとした途端、それに気づいた長髪の男が沢木を盾にしながらMP5を乱射し、彼は勝手口の外に戻された。
渡辺の姿を認めた沢木は「鮫島だーっ!」と叫び、その声を聞いた渡辺は、ベルトに挟んでいた里中の銃―ベレッタM92Fを取り出し、発砲の隙をついてドアの陰から長髪の男の右肩を撃ち抜いた。
鮫島はその光景に少なからず畏怖を覚えた。なぜなら、人質を盾にしているのにも関わらず発砲し、なおかつ、標的を正確に撃てる人間は、この日本においてSOPの隊員以外には考えられないからだ。
SOP…… ということは里中も
鮫島は大声で指示した。
「人質を盾にして脱出する! 計画変更だ」
さらに、渡辺に向かって怒鳴った。
「外の奴! 今度撃ったら人質の命はないぞっ!」
鮫島たちは沢木と人美を盾にしながら家の外へと進み出た。
渡辺が人の気配のなくなった家の中に入ると、進藤のうめき声が聞こえた。彼は玄関近くに倒れる進藤に駆け寄った。
「進藤! 大丈夫か!」
「僕に構わず二人を……」
この時、外のバンのエンジンがかかる音がした。
「早く」
「救急車を呼んでやる。しばらく辛抱してろ」
「こういう時はさすがに優しいんですね」
進藤は微笑みながら続けた。
「さあ、早く」
渡辺が外に出ると、バンは走り出したところだった。彼はバンを追うようにしてスカイラインに向かって走った。
「ボス、追ってくるぜ」
その言葉に振り向いた鮫島は、大平の家で遭遇した男であることに気づいた。
奴はあの時の…… 一人か? 里中は?
長髪の男は肩の傷に顔を歪ませながらも「俺がぶっ殺してやる!」と叫びながら車窓から身体を乗り出し、MP5を構えた。だが、その銃弾が炸裂することはなかった。
「畜生! 弾詰まりだ!」
車内に身を戻した長髪の男は銃を点検したが―
「変だ、なんともねー」
この時、人美は意識してサイ・パワーを使ったわけではなかった。しかし、彼女の心の叫び―「撃たないで!」―は、確実に反映されていた。
渡辺はスカイラインに飛び乗ると、タイヤがスピンするほどの急発進をして白いバンを追った。
続く…
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