小説『エクストリーム センス』は笹沼透(Satohru)の著作物であり、著作権法によって保護されています。無断で本小説の全部または一部を転載等利用した場合には、民事罰や刑事罰に問われる可能性があります。
江田克は自分の予感が的中したことにほくそ笑んだ。ニール・エマーソンの電子メールを読んだ江田は、皮算用をしながら最もよい取引相手は誰かと思案した。彼の思惑は、エクストリームセンスの情報を良き取引相手に買い取らせ、大金を得ようとするものだった。幾つかの取引相手が思いついたが、相模重工のライバルにして世界第2位の重工業メーカーであるアメリカのAHIが良いだろうという結論に達した。AHIの上級副社長であるスティーブン・シンプソンとは、EMSアメリカの時代にボディーガードを務めたことにより信頼を得て以来、これまで何度か情報を売って小遣いを稼いだことがある。きれい過ぎず、やば過ぎず、最もバランスの良い相手と彼は判断した。しかし、どうやってエクストリームセンスの情報を得るか? しかも、エマーソンは沢木の考え方まで求めている。そして、いざという時に自分に足が着くのはごめんだ。思案の結果、彼はかつて世話になった橋本浩一に協力を仰ごうと彼の携帯をコールした。
EMSの日本進出に大きく関わっているのが田宮(たみや)石油である。田宮石油は、石油産出国での施設警備や石油タンカーの航路での警備にEMSのサービスを利用していた。そして、EMSが日本進出の検討を始めると、田宮石油は出資すると同時にビジネス・プランの策定に協力し、この時、江田は橋本と出会った。EMSオリエントの守備範囲は日本列島と朝鮮半島。それだけに多くの”兵隊”を必要としたのだが、橋本は現役OBを問わず、軍人や警察官など使える人間を数多く紹介してくれた。あれだけの人材を集められる人間が、堅気の人間とは江田には思えなかった。詳しい素性は分からないが、あいつならば今の課題にも良い知恵を貸してくれるだろうと考えたのだ。
江田が橋本に電話をすると、橋本はビジネスの話ならいつでも歓迎だ、と言って早速今晩会おうと約束してくれた。時間になり江田が指定された居酒屋におもむくと、通された個室の座敷には、橋本がビンビールを飲みながら待っていた。
しばし世間話などをした後、橋本が「でぇ」と言うので、江田は本題を切り出した。
「相模重工の沢木聡という技術者は知っているか」
「沢木? 随分と面白い名前を口にするな」
「知っているのか」
「まあ、ちょっとな」
「その沢木がエクストリームセンスという新システムを開発しているんだが、この情報が欲しい。それに沢木がこのシステムで何をしようとしているかも」
「何をしようとしているか? そりゃ、金もうけだろ。あいつが特許でそれだけの大金を手にしてるか知ってるか?」
「とにかくスポンサーのオーダーなんだ。俺が直接動くわけにはいかないし、あんたの知恵を借りたいんだ」
「金はあるんだろうな? かなりかかるぞ」
「多分、あんたが考えてる額は出せると思う」
「んん。それなら最も脆弱(ぜいじゃく)なセキュリティを突くのがいいだろう」
「最も脆弱?」
「人間の心だよ」
「なるほど……」
「新システムの開発に絡んでいる人間の下調べはできてるのか?」
「俺が調べたのは沢木以外ではこの三人だけだ」
言いながら江田はスーツの内ポケットから資料を取り出して橋本に渡した。
「白石浩三、年寄りは駄目だ。秋山美佐子、沢木の女か。仕掛けに相当時間がかかるな。岡林敦。んーん、手頃な獲物だな。分かった、引き受けてもいいだろう。で、予算は幾らあるんだ?」
「相模に膨大な利益をもたらしているASMOSをも上回るとなれば、相当な額でさばけると思う。とりあえず、あんたの言い値を聞かせてくれ」
「手付けで1,000万。後は状況次第だ」
「分かった。明後日(あさって)以降、いつでも渡せるように準備しておく」
「商談成立だな」
二人はビールで乾杯した。
江田と分かれた橋本は、自分の事務所に帰るべく川崎のネオン街を歩きながら考えていた。
沢木かぁ…… これも定めか。鮫島(さめじま)、やっとお前の仇(かたき)を討てるかもなぁ……
橋本浩一は、千葉県の田舎町に生まれた。小学生のころはおとなしい性格で、それが災いしてかいじめに遭っていた。中学生になったある日、彼は父親の薦めで空手道場に通い出した。最初は嫌で嫌で仕方がなかったが、彼には格闘技の資質がありみるみる強くなっていった。ある時、小学生時代のいじめっ子と偶然街で遭った時、彼はかつあげされそうになった。しかし、今やいじめっ子よりも体格がよく、武道をたしなんでいた彼の敵ではなかった。いじめっ子を蹴散らすと、彼は自信を持った。「力があれば、あんな屈辱に遭うことはないんだ」と。彼はその後も空手に打ち込み、幾つかの大会で優勝した。地元ではもはや無敵の橋本として知られるようになっていた。その後も、高校、大学と空手を続け、全国大会でもチャンピオンになった彼は、ある上場企業の空手部から誘いを受けた。それに応じた彼は東京に出て、格闘家としての本格的な人生を歩み始めたのだが、練習中にけがをし、格闘家としての道を断念せざる負えなくなった。仕方なく、彼は総務部の総務課という部署で働き始めるのだが、武道に専念してきた彼にはできないことだらけで、上司や同僚は彼を煙たがり、仕事を教えるどころかバカにした。
自分はこんなにも何もできない人間なのか?
それまでの彼の自信は大きく揺らいだ。そして退職して手にした幾ばくかの退職金を持って、繁華街をさまよい歩いた。格闘家としてはその目を絶たれた彼も、ルールのないストリート・ファイトとなればその強さは最強と思えるほどだった。彼は酒を飲み、チンピラに絡み、次々とけんかを仕掛けてはその相手を倒していった。
ある時、その街を仕切るヤクザに彼は誘われた。それは、借金の取り立てや、島を荒らす連中を排除する仕事だった。その日暮らしをしていた彼は、雇用主が誰であろうと、一定の収入が得られるその仕事に飛びついた。すっかりヤクザの仲間入りをした橋本だったが、彼のうわさを聞きつけた千葉を地盤とする国会議員に、ボディーガード兼運転手として雇われることになった。議員は、なぜか橋本をかわいがった。
「いいか、橋本。腕っ節の強さだけではこの世の中は生きていけない。これからは頭を鍛えろ。まずは、新聞を隅から隅まで読むことから始めるんだ。運転手には待ち時間がたくさんある。しっかり勉強するんだぞ」
そう議員から言われた橋本は、素直に勉強した。そして、今までの自分は何と無知だったのかと恥じた。そうだ、何事も鍛錬だ。いじめられなくなったのは強くなったからだ。頭を鍛えれば、俺の人生も変わるはずだ。数ヶ月後、橋本の努力を認めた議員は、彼をボディーガード兼運転手から、秘書兼ボディーガードに昇格させた。
「いいか、橋本。世の中には表と裏がある。それらは表裏一体、つまり、その二つで世の中は成り立っているということであり、そのどちらにも通じていなければ生きていくことなどできない。奇麗事を言う連中は所詮は二流、お前は一流を目指せ」
更に続けた。
「重要なのは頭だ。金を手にするのも、人を使うのも、地位や名誉を得るのもその源泉は頭だ。これからも勉強を怠るなよ」
橋本はその教えに従った。そして、特に議員の裏の仕事を任された彼は、次第に裏社会とのコネクションを広げていった。
ある日、彼は議員から一人の人物を紹介された。
「これから会う方は、日本を誇り高い国に変えようと活動されている方で、我々の強力な支援者だ。粗相のないようにな」
その人物とは、田宮石油会長の田宮総吉(たみや そうきち)。〈民の証〉と称する裏組織を仕切る人物だった。横浜市の料亭で、橋本は初めて田宮と会った。橋本の目に映る田宮は、オーラというのか、何か得体の知ないすごみというものを感じさせた。と、突然田宮が切り出した。
「どうだね、橋本君。今度は私のところで勉強してみないか? もっといろいろな世界に触れられると思うよ」
田宮の問いかけに議員が言った。
「こんないい話はないぞ! 私のことは気にしなくていい。田宮さんのところでお世話になりなさい」
その後、橋本は田宮石油に正社員として採用され、田宮の秘書として仕事を始めた。その仕事とは、田宮の裏の仕事を切り盛りすることだった。そして今、彼は田宮の元から独立し、川崎の雑居ビルでセキュリティ・コンサルタントの事務所を開業している。もちろんそれは、世を忍ぶ仮の姿であり、今も田宮とはつながりを持っていた。
橋本は自分のオフィスからネオンに包まれた歓楽街を見下ろし、物思いに浸った。
気がつくと、生きていた。好むと好まざるとに関わらず、人はこの世に生を受け、親を持ち、人と関わり、学校に行き就職し、泣いたり笑ったり、競争に勝ったり負けたりしながら生き続ける。自ら死を選ぶというオプションはいつでも行使できるはずなのに、これが行使されることはまれだ。基本的に人は生き続ける――なぜだろう?
人は死を恐れる。死を恐れる以上、生きる以外にそれを逃れる方法はないのだが、死を自ら選ぶ者とは、死の恐怖以上に生きることが恐怖となるのだろうか? だとすれば、人は生きることと死ぬことの恐怖を計りにかけ、恐怖の少ない方を選択するといえるのか……
子供のころは夜が怖かった。闇の中から未知なる物が自分を襲う…… 孤独で冷たく、目に見える物が少ないから妄想が頭の中を駆け巡る。怪奇現象の本や友達が話していた怖い話、いろいろなことが思い出したくもないのに思い出されてくる。闇は視覚などの情報を奪う代わりにイマジネーションを増幅させる。闇から生まれるイマジネーションは、そのほとんどが恐怖だ。そして朝になり、学校へ行く支度をするころには、トイレに行くための廊下も全く怖くはなくなっている。
闇とは逆に、光はたくさんの情報を与える。見える、という安心感は、外部からの情報処理能力を活性化させる代わりに、イマジネーションを減少させる。そう、今の日本は光に包まれた国だ。だからそこで暮らすほとんどの人間は、イマジネーションが欠如している。恐怖に対して鈍いのだ。ならば、もう一度闇の恐怖を教えてやる必要があるのではないか。
俺は、何のために生きるのだろう? このまま生き続けても、行き着くところは死だ。いずれは死ぬという唯一絶対の定めの中で、今日死ぬことと、10年後、20年後に死ぬこととの違いは何なのだろう? 豊かな人生? 意味が分からない…… というよりも、なぜこの世には生物などというものが存在するのか? しかし、考えてみると死が訪れるのは生物だけではない。形あるものはいつか壊れる。太陽はいつか燃え尽き、地球もいつかは消えてしまうのだろう…… つまり、永遠が約束されたものなどこの世にはないということだ。言い換えれば、死こそが唯一の約束なのだ。ならば、約束を果たすことに手を貸すことには正当性があるはずだ。
人類はたくさんいる。多少の犠牲など取るに足らないことだ。死をリアルに体感することで恐怖がよみがえることによりイマジネーションが豊かになれば、もっと死に向き合う人間が多くなるはずだ。そうなれば、生きることの意味はもっとシンプルに理解されていくだろう…… そして、この世は変わるはずだ……
橋本浩一、彼もまた、退行主義過激派の思想を持つ者の一人だった。
橋本が物思いに浸っているころ、月明かりに照らされた白石邸の広い庭の真ん中に立ち、見山人美は3メートルほど離れたところに置いたバスケットボールを見つめていた。そして呼吸が整うと、人美はEYE’sの制御モードをセーフティからノーマルに変更し、ボールをコントロールすることに集中した。人美のサイパワーがボールに伝わると、それはスーッと静かに浮かび上がり、彼女の周りを衛星のように回り始めた。完璧なコントロールだった。人美は徐々にボールの円周軌道を広げていき、同時に軌道の高度を上げたり下げたりした。これは、人美が独自に考え出したトレーニング方法だった。最初は紙を丸めた小さな球体から始め、ビニールボール、ソフトボールと徐々に大きさと重さを変えていき、今はバスケットボールでトレーニングしている。
人美はこのトレーニングを通じて、物の大きさや重さはサイパワーの行使には関係ないことを学んでいた。現に、人美は白石のベンツを数センチ持ち上げたり、建設現場に置かれたパワーシャベルを持ちあげたりすることができた。そして、坂道をマウンテンバイクで上がる泉彩香が「疲れたよ」と言うと、人美はサイパワーで彩香を牽引(けんいん)した。
大丈夫、いつもと同じ。うまく使えてるわ、と心で言った人美は、大空へのチャレンジを開始した。人美はEYE'sの制御モードをパフォーマンス・モードに切り替えると足元を見た。そしてイメージした、地面から足が離れるところを…… その瞬間、風の動きを感じた後、脚は突然軽くなった。
よし……
人美は10センチほど宙に浮いている。
次は、このまま前に移動……
そう念じると、人美の体は動く歩道に乗っているかのように、滑らかに水平に移動した。
少し高く……
人美は失敗した時のことを考えプールの中央付近に移動し、体の高度を少しずつ上げていった。1メートル、2メートル、3メートル。極めて順調だった。
OK。今日は調子いいかも……
そう感じた人美はクリスタル・フィールドを展開した。これで誰かに見られる心配はない。人美はホバリングしているような状態で高度を更に上げ、5メートルほどの高さに上昇した。
さあ、次はゆっくり小さく旋回……
しかし、体は思うようには動かない。まるで小回りのきかない大型トラックのように大きな弧を描かないと旋回できない。
イメージが足りないんだよなぁ…… 鳥になった気分にならないと……
人美は両手を広げ、左旋回する時に翼を模した両腕を左に大きく傾けてみた。すると、スムーズに小さな旋回が始まった。
「やったっ!」
思わず声が出た。しかし、人美の体は左に大きく傾き続け、脚が頭より高くなると……
バシャーン! 大きな水しぶきを上げ、人美はプールに落下した。
クリスタル・フィールドに守られた人美はフワフワとプールの水面に浮かんでいた。
「墜落かぁ~ 鳥って、すごいなぁ~」
そうつぶやきながら、人美はあおむけに寝転がった。クリスタル・フィールドによって水面に浮かぶ人美の姿は、まるでエアマットで浮かんでいるようだった。人美の目に月が見える。
絶対飛べると思うんだよなぁ~ 無理なのかなぁ~
サイパワーが覚醒してからというもの、人美の試行錯誤が続いていた。
ニューヨークのシンボルの一つ、マンハッタン橋。そのマンハッタン島側イースト川のほとりにAmerican Heavy Industries, LTD.(AHI)の本社はあった。執務室で江田克のメールを読んだAHIの上級副社長、スティーブン・シンプソンは怒りに震えた。
ASMOSを超えるほどのシステムだと。沢木め、どこまで俺に逆らう……
沢木聡のEFC論理が発表された時、シンプソンは沢木をAHIに誘った。しかし、沢木はボーイング社とのフライトシステム開発を選びシンプソンの誘いを断った。そして2回目は、沢木がMITを卒業し相模重工を選んだ時だった。そして相模は革新的制御システムの製品実装で次々と成功し、大きな利益を上げると同時にライバルを振り切った。AHIは相模に次ぐ世界第2位とはいえ、売り上げはダブルスコア以上離されている。
これ以上、相模にやられるわけにはいかない。
AHIの製品開発を統括するシンプソンには焦りがあった。金に糸目はつけない。詳細な情報を入手しろとシンプソンは江田に返信した後、同志に電話をした。同志とは、アメリカ上院議員のアーノルド・クーパーで、反日派の急先鋒(せんぽう)と知られる人物である。クーパーは、今日はニューヨークに滞在している。いいタイミングだ、彼に相談しよう。シンプソンはクーパーの泊まるホテルで会う約束をした。
1985年にプラザ合意が行われたことでも有名なプラザホテル。そのスイートのリビングルームでブランデーを飲み交わしながら二人は会話をしていた。
AHIの上級副社長、シンプソンが言った。
「EMSオリエントになかなか使える日本人がいるんだが、そいつから相模重工がまた新しいシステムの開発に着手しているというニュースを聞いたよ。全く沢木さえ獲得できていれば立場は逆だったものを」
上院議員のクーパーは葉巻を吹かしながら答えた。
「なぁーに、ゲームは終わった訳じゃなかろう。逆転のチャンスはまだあるさ」
「例の法案、何とかならないだろうか?」
「残念だが、今の腰抜け政権にそんな度胸はないさ。それに、国内シュアを取り戻したところで、君は満足しないだろう」
「確かに。世界シュアの奪還こそ、AHI、いや、オルグが目指すべきものだ。何としても新システムの情報を手に入れて、巻き返しを図らなければ」
「オルガナイザーは使えないのか?」
「私の知る範囲では、相模にオルガナイザーはいない。アジアは開拓が不十分だ。EMSオリエントの男がやってくれることを祈るだけだ」
「ならば、もっと大きな取り組みも我々には必要ではないかね?」
「もっと大きな?」
「そうだ。沢木を手に入れたいのなら、相模ごと手に入れるということもできる」
「買収ということか? しかし、相模の時価総額は600億ドルだぞ」
「高いものは値を下げればいいだろう」
「どうやって?」
「たたきのめすのさ…… OEC(オリエント経済共同体)の好景気をいいことに、極東の連中はいい気になり過ぎている。まるで世界の中心はアジアとでも言わんばかりだ。見せしめのために、相模はちょうどいいではないか……」
(続く……)
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