【案内】小説『エクストリームセンス』について

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2012年9月26日水曜日

小説『エクストリームセンス』 No.4

小説『エクストリーム センス』は笹沼透(Satohru)の著作物であり、著作権法によって保護されています。無断で本小説の全部または一部を転載等利用した場合には、民事罰や刑事罰に問われる可能性があります。

 

 すべてがうまくいっている、沢木聡はそう考えていた。エクスプロラトリービヘイビアの夏以降、見山人美のサイパワー研究に着手したことは、ASMOSの開発にも大きな成果をもたらした。
 人の思考とは、脳波という電気的な信号として捉えることができるが、それを何かの制御に用いるためには、ある特定の脳波が必要になる。それは、脳の言語野から出力される言語波であり、言語波とは言語レベルの思考により出力される脳波のことである。簡単にいえば、「こんにちは」と心の中で言葉を発した時に出る脳波のことだ。しかし、言語波の波形や出力レベルには個人差があり、人美以前の被験者はそれが弱く不安定で、ASMOSは膨大な学習時間を必要とした。ところが、人美の言語波は強く安定していたために、ASMOSの学習効率が飛躍的に高まったことで、標準的な言語波のパターン・ライブラリーが完成し、より多くの人々の言語波を理解することへの時間が短縮されたのだ。このことは、ASMOSの実用化に大きく貢献した。
 ASMOSの実用化が始まると、相模製品の多くにそれは搭載されていき、他社製品との明確な差別化は相模に巨額な利益をもたらした。それ以前も、相模重工に多大な利益貢献をしていた沢木だったが、ASMOSによるさらなる貢献によって、昨年、35歳の若さで執行役員に就任し、彼の所管する総合技術管理部は、先端技術開発本部に昇格した。
 一方、秋山美佐子(あきやま みさこ)との関係もあの夏以降変化した。それまで沢木の心の中を支配していたかつての婚約者への思いは晴れ、彼に恋心を持つ秋山と素直な心で接することができるようになった。その結果として、二人は昨年の10月――それは秋山の誕生日に、沢木がプロポーズし婚約が成立した。そして人美。
 あの夏のころは彼女の将来を案じてやまなかった沢木だったが、今はそのような心配は一切なかった。人美は明るく元気で、将来の夢や希望に向かって真っすぐに突き進んでいたし、サイパワーを持つという特異な自分の運命とも立派に対峙(たいじ)していた。
 沢木は人美の誕生日パーティーに出席する皆の笑顔を眺めながら、そんなことを考えていた。
 泉彩香はかばんから取り出した人美へのプレゼントを持って言った。
 「はい、私からのプレゼントだよ~」
 それは雑誌くらいの大きさで、赤い包装紙と白いリボンでラッピングされていた。
 「何だろう?」
 人美がうれしそうに包みを開けると、『ファンタジスタ』というタイトルの絵本が出てきた。
 「うわぁ~、彩香の手作り絵本?」
 人美の声に彩香が答えた。
 「あんまり絵は上手じゃないけど、一生懸命作ったのよ」
 人美は「ありがとう」と彩香にほほ笑むと、その絵本をめくっていった。それは、超能力を持つ少女の話だった。少女は最初のうちは自分の力に戸惑うが、超能力を使って友達の迷子になった犬をみつけてあげたり、転びそうになった老人を助けたりし、次第自分が超能力を持ったことの意味を理解していく。そして、少女の超能力を知る友人たちは、少女をファンタジスタと呼ぶようになる、そんな話だった。
 人美の横で一緒に絵本を見ていた秋山が彩香に言った。
 「ファンタジスタかぁ…… 今までエスパーとかサイキックとか言ってきたけど、これからは超能力者をファンタジスタと呼ぶことにするわ」
 このエピソードにより、沢木たちは超能力者をファンタジスタと呼ぶことが定着した。
 白石弘三(しらいし こうぞう)の声が響いた。
 「沢木は? プレゼントは何だ?」
 沢木は笑顔を人美に向け、「もちろん」と言いソファの後ろに隠していたプレゼントを取り出した。彩香が自分のことのように言う。
 「何だろう? ワクワクする」
 人美は彩香と沢木にアイコンタクトを交わした後、プレゼントの入った箱を開けた。
 「うわぁー、カチューシャ!」
 人美はそう言いながら、箱から取り出したカチューシャをテーブルに並べていった。彩香は「6個も! これなんかかわいいねぇ」と言いながら、人美につけてみなよと催促した。沢木は「何にしようかと迷ったんだけどね。ちょうどいいタイミングで第2世代EYE’sが完成したのと、秋山さんから、カチューシャが一つじゃ服装に合わない時があるだろうから、幾つか用意してあげようと言われたので、6パターン、二人で考えたんだ」と言い、秋山が続けた。
 「女の子はおしゃれにしてないとね。デザイン、気に入ってもらえたかしら?」
人美は感激を口にした。
 「ありがとう! とてもすてきよ。秋山さんの言う通り、今のカチューシャ一つだけにちょっと不満だったの。とってもうれしいわ!」
 人美の喜ぶ顔を見てホッとした沢木は、もう一つのプレゼントを出しながら言った。
 「それから、これが新しいEYE'sの端末。今度のはスマートフォンだよ」
 美しい光沢をもったメタリック・レッドのスマートフォンを手渡された人美は、「ありがとう」と声をあげた。沢木は「スマートフォンにすることによって搭載できるデバイスに余裕ができたから、ASMOSの処理能力が良くなってバッテリー寿命も向上している。普通にEYE'sを使うだけなら1日1回程度の充電で済むはずだよ。まあ、彩香さんとの長話があるんだろうけどね」と説明した。彩香は「女の子にはいろいろと語らなければならないことがあるのよ。とても重要なことだわ」といたずらっぽく沢木に言い返すと、彼は「これは失礼」と笑顔で受けた後、人美に「新型EYE’sを試してごらんよ」と続けた。人美は「ええ」と答えながらオレンジ色のカチューシャを選び、小さなディップ・スイッチをオンにして頭に付けた。そして沢木の操作説明を聞きながら、スマートフォンの電源を入れ、カチューシャを模したアイコンをタップしてEYE'sのコントロール・パネルを起動し、サイパワーの制御モードをセーフティからノーマルに変更した。
 「それじゃぁ、おじさまにワインを注(そそ)いでみるね」と人美は言いながらワインのボトルに手のひらをかざした。するとボトルはスーっとほんの少し浮き上がり、ニコニコとする白石に近づいていった。が、急にボトルが浮力を失いテーブルに落ちた。白石は慌ててボトルを押さえた代わりに手に持ったグラスのワインを自分の着物にこぼした。
 「ごめんなさい! おじさま」と人美が発した後、沢木は人美の前にしゃがんで尋ねた。
 「大丈夫? 違和感があるならすぐに外して……」
 白石はワインを拭きながら言った。
 「しっかりしろ、沢木!」
 「ごめんなさい、私が悪いの! 突然、頭の中にイメージというか、予感が走って気が散ってしまったの」
 彩香は「予感って、何?」と言いながら人美に寄り添った。人美が答える。
 「何かが起こりそうな気がする。多分…… 多分、とてもよくないこと……」
 彩香は「やだぁ! 人美。怖いこと言わないでよ」と言って鳥肌の立った腕を擦った。沢木は不安げな表情をする人美からスマートフォンを取り上げると、制御モードをセーフティに切り替えてから「大丈夫だよ」と優しく声をかけた。しかし、心の中でこう続けていた。
 君がそう感じるのなら、きっと、何かが起こるんだろうね……

 

 ズウォメイ・エマーソンの予言――人のバランスが崩れようとしている――は、ニール・エマーソンの脳裏から離れなかった。それは一体どういうことなのか? 人のバランスが崩れるというのなら、そもそも人のバランスとは何なのだろう? 人間同士の関係なのか? それとも生物的なものなのか? いずれにしても、ズウォメイの予言の的中率が高いことは何より自分が体験している。間違いなく何かが起こる…… もしそれが人類にとって災いとなるようなことならば、その前兆を知ってしまった自分が何も行動しないわけにはいかない。彼はそのような使命感のもと、沢木の研究開発内容について、学生時代の論文からYouTubeに掲載されている講演まで、様々な公開情報を一通り調べてみた。しかし、そこに彼を満足させるような情報は見当たらなかった。
 ズウォメイのダイブを頼るしかないか……
 公開情報に限界を感じたエマーソンは、EMSの日本支社――EMSオリエントの江田克(えだ まさる)に電子メールを送り、沢木とその周囲の人間に関する情報を収集するように指示した。
 江田という人物は、陸上自衛隊のレンジャー部隊で兵士としての基礎を身につけた後、アメリカに渡り傭兵(ようへい)としてEMSに雇われた。そして、エマーソンが信頼する部下の一人として、数々の修羅場をくぐり抜けた優れた兵士だった。しかし、彼の価値観はエマーソンのそれとは違って、EMSの傭兵(ようへい)であることが、それなりに彼の金銭的価値観を満足させてくれるという理由だった。
 3年前、EMSはオリエント経済圏への進出を決め、拠点となる日本支社の開業準備のために江田を帰国させ、警備スタッフの訓練を担当させた。そして、2020年に株式会社EMSオリエントが設立されると、彼は人材開発担当部長という肩書きで仕事を続けた。この仕事は江田にとって悪くはない仕事だった。今までのように死のリスクをとらなくても、机に座っていれば今まで以上の年収が得られるのだから。しかし、机に座って考える時間が多くなると、彼はもっと楽をして金を稼ぐ方法はないかと思うようになった。そこへエマーソンからの電子メール。江田はメールを読み終えるとつぶやいた。
 「こいつは、金になるかもな……」

 

 ゲリラ豪雨といつからか呼ばれるようになった局所的な激しい雨が降る7月2日金曜日の午前、沢木聡は先端技術開発本部と産業機械事業部のエンジニアを率いて、東京の晴海埠頭(ふとう)にあるSOP本部を訪れていた。その目的は、開発コードSOP-X1と称される戦術支援ロボットをテストするためだった。
 相模重工は既にASMOSを市場投入し、そのうちの一部は危険作業用ロボットなどに搭載され、日本の原子力発電所の廃炉作業や、旧北朝鮮の核施設解体作業などを行っていた。SOP-X1は、こうしたロボットの人型版であり、商用利用目的のNGR-XをSOP仕様に改良したものだ。この用途は、SOPの戦術支援であり、建物内部などを捜索する際に、SOPの隊員に変わって先陣を切るのだ。
 SOP-X1は、体長80センチで頭部にビデオカメラ、指向性マイク、赤外線センサー、X線カメラを搭載し、SOPの隊員のヘルメットに装着されたPPD(サイコロジカル・パルス・デバイス)により遠隔操作される。また、SOP-X1が捉えた情報は、ヘルメットに装着されたHMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)に投影され、音声情報は通常の無線装置によってフィードバックされる。
 SOP本部の地下にある巨大な空間――そこはSOPの屋内訓練場であり、その空間の半分を占めるスペースには、2階建てのビルを模した構築物がCQB(近接戦闘)訓練用として設置されていた。沢木はその施設をガラス越しに一望できる指令所の一角に陣を構え、SOP-X1のテストを見守っていた。今、SOP-X1を先頭に、4人のSOP隊員が訓練施設に進入し、サーチ&クリアを行っているところだった。
 ディスプレイに映し出された情報を読み取りながら沢木が言った。
 「やはり、あの女性隊員。彼女が一番適性があるな」
 隣に座る岡林敦(おかばやし あつし)が答えた。
 「人美級、とまではいきませんが、他の隊員と比べるとダントツですね」
 「んーん、やはり脳や意識確立の個体差が、ASMOSとの相性を決定づけていると考えるべきだな」
 工業用ロボットの場合、動作のパターンは一定の範囲にとどまるため、思考のパターンもそれに連動して限定されるが、SOP-X1のように様々な状況への対応が求められる対象の制御には、言語波の標準ライブラリーだけでは思考を解析しきれないために、オペレーターとなる者の言語波をASMOSが学習する時間と、言語波を的確にPPDに伝えるための訓練を必要とする。だが、まれに訓練期間が短くASMOSの学習時間も少なくて済む者がいる。SOP唯一の女性隊員にしてエースの星恵里がその一人だった。岡林は「ひょっとしたら彼女、“ES使い”になれるかもしれませんね」と言い、声音を変えて「それに彼女、星恵里さん。かわいいし!」と続けた。うれしそうな顔をしている岡林に沢木は答えた。
 「彼女はSOPのエースだぞ。この前の東京国際フォーラムの事件でも、最初に突入したのは彼女らしい。岡林のかなう相手ではないと思うが……」
 岡林はムッとして言い返した。
 「何ですか、その夢のない言い方は! 第一、僕はテロリストではありません!」
 「ごめんごめい」と沢木は全く感情のこもっていない謝罪をした後、再びディスプレイを見ながら言った。
 「ES使いかぁ…… 確かに彼女ならできるかもなぁ……」
 星恵里は不思議な感覚を覚えながら訓練を続けていた。彼女の左目を覆うHMDにはX1の捉えた映像が見え、自分の意のままにコントロールできた。「右に曲がって止まり、赤外線センサーに切り替える」と心の中で言葉を発すると、HMDにはその通りの結果が返ってくる。
 まるで、自分の意識が広がったみたい……
 そんなことを思いながら、星はX1をコントロールしていた。
 X1のテストを終えた沢木は、一足先に社に戻るべくSOP本部の玄関ロビーに立ち迎えの車が来るのを待っていた。すると、沢木を呼ぶ声とともにSOPの捜査官、里中涼が現れた。里中は足早に沢木に近づくと切り出した。
 「沢木さん、参考までに伺いたいことがあるのですが、先日の東京国際フォーラムでのテロ事件、実は不思議なことがありましてね。6人の犯人はいずれも短機関銃のMP5を所持していたのですが、その6丁すべての撃鉄バネが折れていて、銃弾が発射できない状態になっていたんです。うちの銃器の専門家に検証させたんですが、撃鉄バネが今回のように折れた状態では、MP5を組み立てることは不可能だと。しかし、連中は犯行直後、人質を威嚇するために数発発砲しています。つまり、その発砲から我々がバネの異常に気づくまでの1時間程度の間に、6丁すべての撃鉄バネが発砲不能な状態に折られたということなんです。不思議でしょ?」
 そりゃ不思議だろうなぁ……
 沢木は里中の話を聞きながら思った。
 そして、その謎は永遠に解けないだろう……
 「そんなことがあったんですかぁ…… それは確かに不可解な出来事ですね」
 「何か解決のヒントはありませんかね?」
 沢木は苦笑しながら答えた。
 「さあ? 私の専門は制御システムです。残念ながらそのような謎に答えられる知識はありません」
 「そうですかぁ…… 最近は不思議なことが多くて、何て言ったらいいのか、奇妙な力がいろいろなところで働いている。そんな感じです……」
 「いろいろな? そんなに不思議なことが多いのですか?」
 沢木が知る限り、里中が人美のサイパワーの遭遇したのは2年前のあの事件と今回の2回しかないはずだった。
 「ええ。私はある仮説を持っているんですが、この世の中には何か得体の知れない力、あるいは意思が働いていて、世の中で起こる幾つかの出来事はその力にコントロールされた結果なのではないか? そんな風に考えているんです」
 「秘密結社のような? それとも不可思議現象ですか?」
 「ええ、まあそんなものかもしれません」
 里中は笑った。
 「なるほど、興味深い御意見ですね。ひとつだけ私に言えることがあります」
 「何ですか?」
 「先ほどコントロールという言葉を使われましたよね。これは私の専門領域です。コントロールするためには、制御対象にインプットを加えるだけでなく、そのアウトプットからインプットを補正しなくてはなりません。一言で言えば、この循環が制御――コントロールというものです。里中さんがおっしゃるような不思議を解明するためのヒントは、インプットとアウトプットのインターフェースが何なのかを解明することかもしれません」
 「それは、人間を洗脳するようなケースでも同じですか?」
 「制御とはすなわち支配です。その構図は大げさに言うならば宇宙の法則であり森羅万象、すべてに共通のものです」
 「なるほど、大変参考になりました」
 沢木は声音を変えて言った。
 「まあ、どんなことにでも理由が必ずありますから、いずれ明らかになるのではありませんか?」
 「そうであればうれしいのですが…… ところで、見山人美さんはお元気ですか?」
 「ええ、5月で二十歳になりました。青春を謳歌(おうか)しているようです」
 「そうですかぁ…… いずれお目にかかりたいですね」
 「里中さんを始めSOPのみなさんは私と人美さんの恩人です。伝えれば喜ぶでしょう。そのうち機会を作りましょう」
 「ええ、是非」
 沢木を見送った里中がオフィスに戻ろうとすると、「里中さーん!」と言いながら星恵里が駆け寄ってきた。里中はうれしそうな顔で答えた。
 「やあ、恵里さん」
 「今の沢木さんでしょう。里中さん、沢木さんと何を話したの?」
 興味津々の星だったが、里中は真面目に答えなかった。
 「別に、単なる世間話。ゲリラ豪雨なんて、ネーミングがよくないとか……」
 星はいぶかしく思いながら言った。
 「そんな会話をする二人には思えないけど…… 何だか怪しいわ、今度は何をたくらんでいるの?」
 里中は首を大きくかしげた。「本当かしら?」と不満そうな顔をする星に里中は少し大きめの声で話題を変えた。
 「まま、そんなことより、X1はどうだったの?」
 「聞きたい?」
 「うん」
 星はにっこりとほほ笑んでから答えた。
 「一言でいえば、エスパーになった気分かしら…… 感覚というか、意識というか、そういうものが広がった感じがするの……」
 「へえ、すごいね。エスパーかぁ……」

 沢木聡を乗せた黒いSAGAMI FC380――それは相模重工の子会社、相模自動車が製造する高級大型セダンであり、ベンツ、BMWと並んで国際的に人気のある車である――は、情報管理室の進藤章(しんどう あきら)の運転によって14時過ぎに横浜市中区の相模重工本社に到着した。
 社用車であるSAGAMI FC380の運用は、通常、相模重工に直接雇用された運転手によって行われているが、沢木が使用する時には情報管理室の室員――情報管理室は相模重工の機密情報を守るために設立された部署であり、主に元警察官で構成されている――が運転することになっている。これは、2年前の沢木拉致事件を契機に開始された運用である。
 車を降りた沢木は、36階建ての相模重工本社ビルのエントランスに入り、役員クラス用のセキュリティ・ゲートにICカードをかざして抜け、ガードマンたちに会釈をしながらエレベーター・ホールへと進んだ。
 相模重工業株式会社での沢木の役職は、執行役員先端技術開発本部長であり、そのミッションは、沢木のEFC(Experience Feedback Control)論理を発展、応用し、相模製品に実装することである。配下の先端技術開発本部にはプロジェクト管理部、制御システム開発部、意識科学研究室、ASMOS運用管理センターの4セクションから構成される総員394名が在籍し、相模重工本社ビルの22階と23階の2フロアに陣を構えていた。
 23階でエレベーターを降りた沢木は、受付のガードマンに「ただいま」と声をかけ、ICカード認証によりセキュリティゲートを抜けプロジェクト管理部のフロアに出ると、再び「ただいま」とあいさつし、特にフィアンセの秋山美佐子には、アイコンタクトと笑顔でただいまっと口を動かした。
 プロジェクト管理部の奥にはガラス張りの個室があり、これが沢木のオフィスとなっている。そこからの眺望はすばらしいもので、眼下に横浜港が広がり、左から右へランドマークタワー、大桟橋埠頭(ふとう)、横浜ベイブリッジ、氷川丸といったランドマークを眺めることができた。視界のよい日には東京スカイツリーを見ることもできるし、夜になれば横浜のネオンが目を楽しませてくれた。その眺望を見ながら、沢木は様々な思索を行い、技術を生み出してきた。
 3台の23インチワイドディスプレイが弧を描いて並ぶデスクについた沢木は、2台のコンピュータの電源を入れた。1台はシングル・ディスプレイのWindowsマシンで、インターネットやメール、社内システムの利用、ビジネス文書の作成などに使われている。もう1台はデュアル・ディスプレイの開発機で、これにはLinuxをベースに沢木たちによって改良されたOS――Future Baseがインストールされている。Future Baseマシンには統合開発環境であるFuture IDE(Integrated Development Environment)が組み込まれ、ここでエクスフィール(exfeel: Experience Feedback Control Language)というプログラミング言語によってASMOSなどのEFCシステムが記述されている。Feature IDE、exfeel、さらにはプロジェクト管理システムやバージョン管理システムなど、開発に必要となるソフトウェアは基本的に沢木たちによって開発されている。かつては、オープン・ソース・ソフトウェアをそのまま利用していたこともあったが、チームの開発生産性を高めるために、次第開発ツール群の内製化が進んだ。特にプログラミング言語のexfeelは、沢木が学生時代から開発してきた言語であり、近年は岡林敦の思想を取り込み、幾つかの言語特性を統合したマルチ・パラダイム言語に発展している。
 17時30分、終業を知らせるチャイムがスピーカーから流れた。沢木は視線をディスプレイから窓の外に移し、雨がやみ美しい夕日が横浜の街を照らしていることに気がついた。今日は満足できる1日だった。SOP-X1の開発は順調であるし、SOP隊員の星恵里から貴重な言語波データを採取することができた。そして、ASMOSを使った新システムのバーンダウンチャートは開発が計画通りに進捗していることを表していた。
 沢木は新システムにエクストリームセンスという名をつけ、略してESと呼んでいた。これは人間の脳とストリーム・コンピューティングをASMOSで結合することによって、いわゆるビッグデータを直感的に処理することができるシステムで、完成すれば商用活用はもちろんのこと、様々な研究開発、軍事利用など、その用途は無限大と思われている。しかし、ESの制御は脳内活動全般で行うため、言語波以外にもASMOSは人間の様々な意識活動を学習しなければならず、今のところESをコントロールできるのは見山人美ただ一人だった。
 沢木はシステム手帳の予定に目をやった。明日の土曜日は人美が沢木の自宅研究室にやってきて、ESのテストをすることになっている。
 「後は明日にして、今日はあがるとするか……」
 沢木はそうつぶやくと、内線電話を取って秋山に電話した。

 

続く……

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