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2010年3月12日金曜日

小説『エクスプロラトリー ビヘイビア』(40)

第四章 リアクション・フォーメーション―Reaction Formation


 タバコの煙がこもる薄暗い地下室の中で、二人の男はバーボンを飲みながら話しをしていた。
「鮫島、お前にしてはやけにのんびりしてるじゃないか?」
「当たり前だろう。あの野郎がかぎ回っている以上、ことは慎重に運ばないとな」
「あの野郎? 里中のことか?」
「そうだ」
「だったら、いっそのこと殺っちまえばいいだろう。そうすりゃ、俺も枕を高くして寝られる」
「それはだめだ」
「どうして?」
 鮫島はにやりと笑い、バーボンを飲んだ後に言った。
「つまり、男の美学さ」
「美学?」
「まあ、あんたには分からんさ」
 鮫島と話しをしている男は橋本浩一といい、表向きは石油会社会長の秘書でとおっている。しかし、その裏の顔は〈民の証〉のテロ実践の指揮者であり、鮫島を始めとするテロリストや暴力団などを指揮し、これまで多くのテロを実行してきた人物である。
 橋本は言った。
「まあ、何でもいいが、船の都合があることを忘れないでくれ、出国が面倒になるからな―でぇ、次の計画はもう決まってるのか?」
「ああ、獲物は決まってる」
「何だ」
「その前に、兵隊を集めてくれ。CQBの得意な奴を三人」
「分かった、すぐに手配しよう。それで、獲物は何なんだ」
 鮫島は再びにやりとして言った。
「沢木聡さ、相模重工の」


 人美が覚醒してから六日後の八月二十三日、水曜日、午後二時ごろ、この日退院した沢木は自宅に戻り、入院中に溜まった仕事の整理―それは書類に捺印したり、郵便物を整理したりなど、多くは雑務の類だった―をしていた。しかし、頭の中は人美のことで一杯で、一刻も早く次なる策を講じなければ、と思索を繰り返していた。
 そんな中、彼は気分転換をしようとピアノを弾き始めた。
 ふらふらと行く当てもなく、マウンテン・バイクで散歩をしていた人美は、ピアノの音色を聞きつけた。
 オネスティだ
 それは沢木の奏でるビリー・ジョエルだった。
 誰が弾いてるんだろう? うまいなぁー、それにいい音
 人美はピアノの音色に呼び寄せられるかのように、音の源を目指してペダルを漕いだ。 沢木は曲を弾き終えるとタバコに火をつけ、小さな庭を見渡せるテラスに立った。口から吐き出された煙を目で追うと、視界の下のほうに人影が見えた。彼はそこに目を移す。ピンク色のリボンが巻かれた麦藁帽子、襟の大きな白とブルーのストライプのシャツ―
 人美だっ!
 人美は庭の垣根越しに沢木を見つめていた。
 沢木さんだっ!
 見つめ合う二人―それは長い長い時間だった。
 沢木はやっと口を動かすことができた。
「やあ」
 はっとする人美。
「あっ! あ…… すみません、のぞいたりして」
 沢木はサンダルを履き庭に下り、人美に歩み寄り始めた。近づくにつれはっきりと見て取れる人美の姿は、愛らしい、どこか大人びたところもある少女にしか見えなかった。
 彼は知らないふりをして言った。
「私に何か?」
「いっ、いえ。ただ、ピアノの音はどこからするんだろうと思って」
「ピアノを弾くのかい?」
「ええ、少し」
「そう。よかったら弾いてみない? スタインウェイだよ」
「ええっ! 凄いピアノをお持ちなんですね」
 沢木は微笑みながら言った。
「私にはもったいないけどね」
「そんなぁ、とってもお上手ですよ」
「ありがとう。ところで、私は沢木聡。君は?」
「見山人美です」
 沢木は芝居を続けながら―
「見山人美さん? どこかで聞いたことがあるなぁ…… ああ、もしかして、白石さんの家に来た人かい?」
「ええ、そうです」
 人美も芝居をしながら―
「白石のおじさまをご存じなんですか?」
「んん、よく知ってるよ。何せ、私は相模重工の社員だから―君のことも聞いたことがあるよ」
「そうだったんだ」
 人美はにっこりと微笑んだ。
「見山さん」
「人美でいいです。みんな名前で呼ぶから」
「そう。じゃあ、人美さん。よかったら家のピアノを弾いてごらんよ。白石さんちにあるのよりずっといいよ」
 実物の沢木は人美のイメージどおりの人だったが、近づくのが怖いような気もした。しかし、彼への好奇心と、ピアノを愛する者なら誰もが憧れるであろうスタインウェイへの誘いに心を動かされた。
「いいんですか? おじゃましても」
「どうぞ」

「あっー! 家の中に入っちゃいましたよ!」
「いちいちでかい声を出すな!」
 渡辺は思った。
 不思議だなぁ…… 運命、だろうか?
 渡辺と進藤は、今日も人美を見守っていた。

 沢木の住む家は、小さな庭付きの平家で、かなり“がた”のきている家だった。この家は相模重工総務部が、彼を迎えるために“取り敢えず”用意したものだったが、彼はこれを気に入り、帰国以来ずっと居をここに構えている。
 人美はピアノの前にたどり着くまでに、いくつかのことに注意を引かれた。一つは玄関の靴―男性用の靴しかなく、彼女は、独身なんだぁ、と思った。もう一つは、スタインウェイの置かれた居間にある本棚で、その蔵書の数は人美のそれを遥かにしのぐものであり、また、その本棚にはロボットや飛行機、スペースシャトルなどの模型がいくつか並べられていた。
 スタインウェイの前に立った人美は、鍵盤を人差し指で軽く押してみた。途端に顔がほころぶ―感激の瞬間。
「すごーいっ! 今まで触ったピアノと全然ちがーう!」
 沢木は人美の麦藁帽子を預かると、「弾いてご覧よ。音もいいよ」と言って微笑んだ。 人美はピアノの前の椅子に腰掛け、何を弾こうかと考えた。
 沢木さんのイメージは?
「冷たいものでも入れようか? 麦茶でいいかい?」
「すみません、お構いなく」
 沢木は居間から続く台所へと進み、冷蔵庫の扉を開けた。その時、人美の演奏は始まった。
 悲愴かぁ。いい趣味だ
 人美の選択した曲は、ベートーベンのピアノ・ソナタ第八番『悲愴』の第二楽章だった。 沢木はピアノの近くに置かれたコーヒー・テーブルの上に麦茶を置くと、ソファに腰掛けた。そして、曲を奏でる人美の指先を見つめながら、演奏に耳を傾けた。
 瞳の奇麗な娘だ。“美しい人”とは、またピッタリの名前をつけたものだ。ピアノも上手だし。この娘が、本当にあの力を持つ少女なんだろうか?
 曲が終わると沢木は人美に歩み寄り、ピアノに肘をついて言った。
「少しどころか、私より全然うまいじゃないか」
 人美は照れながら答えた。
「そんなぁ、ピアノがいいんですよ」
「謙遜だな。私なんか自己流で、きちんと練習もしてないから、とても人美さんのようには弾けないよ」
「それであれだけ弾けるんなら、逆に立派ですよ」
「そうかなぁ?」
「そうですよ。でも、いいなぁ。私にもこんな素敵なピアノがあったらなぁ」
「よければ、もっと弾いていきなさいよ」
「でも……」
「私は今は夏休み中で暇なんだ。君さえよければ、もっと聞かせてくれないかなぁ。ピアノもうまい人に弾かれたほうが嬉しいだろうし」
 人美は二曲披露した。ショパンの『ノクターン第二番』、リストの『愛の夢』―
 この後、二人はピアノや音楽のことを語り合う中で、次第に打ち解け合い、互いに心を開いていった。それはまるで、ずっと以前からの友人のような、あるいは兄妹のような、そんな雰囲気さえ感じられるものだった。
 人美は帰り際にこんな質問をした。
「技術者である沢木さんに質問なんですけど?」
「なんだい?」
「沢木さんは、超能力ってあると思いますか?」
 ドキっとする質問だった。沢木はタバコに火をつけながら答えた。
「あると思うよ」
「本当?」
「んん。きっとあるさ」
 人美は嬉しそうな顔をした。
「それじゃ、私帰ります」
「ああ。今日は楽しかったよ、ありがとう」
「いいえ、私こそ」
「またピアノを弾きにおいで」
「はい」
 沢木は人美を家の前まで見送りに出た。彼女は自転車に乗って去って行った。そして、角を曲がる時に一度振り返り、沢木に手を振った。彼もそれに答える。
 沢木の視界から人美が消えると、彼の横に黒いスカイラインが止まり、中から渡辺が話しかけた。
「偶然、っていうのは奇妙だな」
「そうですね」
「どんな娘だった?」
「んー、名前どおりの娘ですね」
「人美、かぁ」
「ええ」
「で、収穫はあったか?」
「そうですね。会えたことが一番の収穫でしょう」
「なるほど」
 スカイラインは人美を追って走り去った。

 
続く…

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