午後五時二十五分。そろそろ終業のベルが鳴ろうかという相模重工本社のオフィスで、沢木聡はIBMのコンピューターに向かい報告書を作成していた。誰に見せるためのものでもないその文書は、報告書というよりも、彼自身のこの夏の体験を整理するためのものだった。
『エクスプロラトリー・ビヘイビア計画に関する報告書』
一九九五年八月三十一日
総合技術管理部 沢木 聡
人の可能性とはどこまで広がるのだろう。
あるいは、
人の能力とはどこまで掘り下げられるのだろうか。
人の心の奥底には、何が棲み何をさせようとしているのか。
善なのか、悪なのか。
知あるところには希望が満ち、
勇気あるところには道が開かれるだろう。
人は生まれた瞬間から命が尽きるまで、
知と勇気を携えながら、人生を冒険し、探究し、
歩んでいかなくてなるまい。
―Exploratory Behavior―
それは、未知なるものへの探索行動である。
沢木はここまでキーボードを打つと、「ふふっ」と笑いながらつぶやいた。
「報告書に序文なんていらないか」
彼はタバコに火をつけると回転椅子を回して窓に向き、眼下に広がる横浜港を見渡した。
ややあってからドアがノックされると、秋山美佐子が書類を持って入って来た。
「沢木さん。下期の予算案ができましたのでチェックしてください。それと、明日はメカトロニクス事業部の……」
沢木は窓の外を見つめたままだった。
「沢木さん、聞いてますか?」
「んん。ああ、聞いてたよ」
秋山は沢木の脇へと歩み寄り、冗談っぽく尋ねた。
「どうしたんです? センチな気分にでもなっていたんですか」
沢木は薄く笑うと答えた。
「そんなこともないけどね。ただ、今年の夏は終わってしまうのがさびしいような気がして」
「そうですね、私もそう思います。この夏はいろいろありましたから。たいへんだったけど、とても貴重な夏でした」
「そうだね」
秋山は遠くを見つめながら言った。
「人美さんはこの先の人生をどう生きるんでしょう」
「心配かい?」
「ええ、少し」
「大丈夫さ」
「どうしてです?」
「アリスはさぁ、不思議の国や鏡の国を冒険する中でさまざまな出来事に遭遇するけれど、自分自身のバイタリティーと想像力でそれらを乗り越えて行くでしょう。僕が思うに人美さんはアリスだよ。大丈夫、心配いらないさ」
「アリスかぁ」
秋山はちょっと尋ねてみたくなった。
「ねえ、沢木さん。人美さんがアリスなら、私はなあに?」
沢木は即答した。
「君はトム・ソーヤだよ」
少し不満だった。
「どうして私は男の子なんです?」
「君はいつでも少年のような目と、少年のような夢を持っているからさ。どう? いいでしょう」
「そう言われれば悪くはないですけど…… まあ、一応納得しておきます」
二人は見つめ合って微笑んだ。
「ところで沢木さん、今回の出来事の総括をまだ聞いていませんが」
「そうねえ、キーワードは四つかな。一つはフィジオグノミック・パーセプション、次いでエクスプロラトリー・ビヘイビア、さらにブラッド・アンド・サンダー、リアクション・フォーメーションの四つ」
秋山は再び冗談っぽく言った。
「解説をどうぞ」
沢木はタバコの揉み消し答えた。
「フィジオクグノミック・パーセプションは心理学用語の一つで、例えば、太陽が笑ってるというような、生命を持たないものが感情を持っているように感じることをいうんだ。あるいは、壁にできた染みをじっと見ているうちに人の顔や何かの形に見えてくる、というようなことも同じ言葉で表現される。つまり、サイ・パワーの存在を知らずにある状況からさまざまな憶測―妄想や想像も含んでだけど、そうして人美さんのことを思い巡らしていた我々は、あたかも壁の染みを見て人の顔だ、と言うのに等しかったと思うんだ」
「なるほど」
「そしてエクスプロラトリー・ビヘイビア。計画を始めた時点ではサイ・パワーの有無に関しては正しい答えを出すことはできなかった。しかし、いずれにしろ未知なるテーマへ挑んだことには変わりない。そういう意味で、僕はこの計画を“未知なるものへの探索行動”と名づけたんだ。そして、結果的には未知なるものに出会ったわけだ」
「一つ質問があるんですけど、沢木さんはなぜ一気に計画を押し進めたんです? 渡辺さんの調査が済んでから片山さんたちを動かしてもよかったと思うんですが、何か確信が?」
「確信なんてまるでなかった。確かなのは、分からない、この一点だけ。そこでどうするか考えたんだけど、どうせ分からないことなら、考えられる手をすべてやってみることが一番なんじゃないかと思ってね。それだけだよ」
「相変わらずですね」
「何が?」
「論理的なところと楽観的なところの差が激しいんですよ、沢木さんは」
「そうかな」
「そうですよ」
「まあ、そうしておくかなぁ。さて、次にブラッド・アンド・サンダーだけど、意味は映画なんかの血なまぐさいシーンのことをいうんだ。これは僕が奇妙な出来事と臨死を体験し、泉さんが傷つき、そして人美さん自身も精神的にまいったあの夜のことを指している。つまり、人美さんの力には、ある時には恐ろしさも含まれる、という事実を警鐘する意味でのキーワードだね」
「そうですね。彼女自身の制御を離れたところに、もしかしたらもっと大きな力が存在するかも知れませんからね」
「ああ。そういう意味で、我々は可能な限りの技術力を持って彼女を援助をしてあげないと」
「人美さんは運がいいわ」
「どうして?」
「だって、ファイア・スターターのチャーリーは、政府の研究機関に狙われたために、悲劇的な体験をすることになるんですよ。その点、人美さんは沢木さんに出会ったんだから、これは幸いといえるわ」
「なるほど。でも、正直言って技術者としての好奇心は持っているよ。彼女の力を解明したい、それをさらなる技術に利用したい。そういう思いがないと言ったら嘘になるさ」
「それは私も同じです。それともう一つの興味は、人美さんにサイ・パワーがあるのなら、ほかにもサイ・パワーを持っている人がいていいはずでしょう。そこなんですよ、私の最大の関心事は」
「まあ、僕が願うことは一つだけだね。それは、鮫島のような人間にサイ・パワーがないように、ということさ」
秋山はくすくすと笑いながら言った。
「そしたら沢木さん、またたいへんですね」
ここで話しが脱線し、しばらく他愛のない話しが続いた後、沢木は最後のキーワードを説明した。
「リアクション・フォーメーションの本来の意味は、抑圧された感情とは逆の感情が起こるという防衛反応のことをいうんだ。例えば、ある人のことが憎くてたまらなかったが、それをずっと我慢していた。そうするうちに防衛反応が起こり、憎かった人に逆に優しくする、というようなことなんだ。人美さんはおそらく相当な精神的抑圧を受けていたと思うんだけど、それを最終的には跳ね飛ばし、本来あるべき自分の姿に戻ろうと努力した。これは正しい意味でのリアクション・フォーメーションとは異なるけれど、そうしたことのキーワードにはできると思ってね」
「なるほど。で、最終弁論は?」
沢木は立ち上がり秋山を椅子に座らせると、自分は机に腰掛けて語り出した。
「エクスプロラトリー・ビヘイビア計画は、人美さんの父である哲司氏の意向を受けて開始された。すなわちそれは、人美さんの周囲で起こった不可思議な出来事に何らかの関連性があるのか? ということを解くことだった。渡辺さんの調査の結果、謎は謎を呼び、ある種の疑惑が一人の少女に浮かび上がった。我々はそれを追求しようとした結果、ついにその存在を確認するに至った。しかし、すべての謎が解き明かされたのではなく、以前として過去に起こった出来事に関しては灰色のままだ。そこで、僕は思うんだが。もうそんなことはどうでもいいと思うんだ。確かな事実、人美さんがサイ・パワーを持っているということ、そして、彼女には未来があるということ、それだけあれば十分であり、何も過去に起こったことを掘り返して、それを見山氏に報告することはないし、また、人美さんもそれを知る必要はないはずだ。大切なことは、今、彼女がどう生きようとしているか、そして未来がどうあるべきか、ということだと思うんだ。
君も知っているように、僕は常々真実とはどんな場合においても明かされるべきだ、と考えてきた。それは、偽りは新たな偽りを呼び、真実によって傷つくことよりも、偽りによって傷つくことのほうがより大きく深いと考えてきたからだ。しかし、かつてヘーゲルはこう言った、理想的なものは現実的であり、現実的なものは理想的であると。これを今回の出来事に当てはめるならば、仮に人美さんが過去の出来事を起こしていたのだとしても、今の彼女はそれを知らないはずだ。もしそれを知っていたのなら、今の彼女はなかったと思う。つまり、現実的なものは理想的である、と考えられるんじゃないんだろうか。
僕の義務として、見山氏への報告という仕事が残っているけれど、僕は真実を伝える気はない。見山氏にはカントの有名な言葉を持って答えに替えようと思っている。それは、内容なき思想は空虚であり、概念なき直感は盲目である、という言葉だ。そして、僕自身の言葉としては、何よりも今の人美さんから真実を悟るべきだ、という一言に尽きる。これは僕自身にもいえることで、今までの僕は過去のある出来事に捕らわれてきた。しかし、大切なことは今であり未来であると、そう思えるようになったんだ。十八歳の少女があれほどの冒険を乗り越えようとしているのに、自分は一体何をやっていたのだろうってね。
サイ・パワーに関して言えば、これはまだまだ未知の領域で何とも言えない。しかし、多く生物がそうであるように、人も進化の過程でさまざまな能力を身につけてきた。そうしたことから考えていけば、安定した環境の中で暮らす人類から微妙な差異を持った個体が誕生し、その中にサイ・パワーを持つ者がいたとしても、決しておかしくはない話しだと思うんだ。あるいは、すべての人間に潜在能力としてサイ・パワーが存在するのだが、それが覚醒していなかったり、気づかなかったり、ないと信じ込んでいたり、そうしたことで表に現れてこないのかも知れない。
まあ、いずれにしてもサイ・パワーは存在し、その一つの現れとして物理的な影響をおよぼすことができるわけだから、既存の物理学以外の真理が存在することになるはずだ。当面は、そんなところを切り口としてサイ・パワーに取り組んでいこうと思ってる。
そして最後に、我々がサイ・パワーを研究するにしても、人美さんを何よりも尊重し、彼女の自発的な協力のもとに進めなくては、僕らは罪を犯すことになる。おそらく技術者や科学者という者は、そうなってしまったらおしまいなんだろうね」
秋山は深くうなずくと、笑顔に変えて言った。
「たいへんよくできました」
「そうかい? ありがとう」
「さあ、帰りましょう」
「そうだね」
秋山はドアに向かって歩いて行った。その後ろ姿に当たるオレンジ色の陽光は、歩調に合わせて揺れる彼女のシニヨンと白いリボンを光らせていた。彼は、それを見ながら彼女に声をかけた。
「ああ、秋山さん」
秋山が振り返る。沢木は側に歩み寄って言った。
「僕はね、高校の時に飛行機を造ったんだ。といっても、ハングライダーとスクーターのエンジンを組み合わせたいわゆるライトプレーンなんだけど、今度の休みにそれを十五年ぶりに飛ばしてみようと思ってるんだ。よかったら、君も一緒に来ないかい。一応二人乗りなんだけど」
秋山は首を捻りながら尋ねた。
「十五年ぶり? ちゃんと飛ぶんですか」
沢木は明るい口調と笑顔で言った。
「ああ、君と一緒なら飛べるさ」
秋山は満面に笑みを浮かべて答えた。
「はい、お供します」
(終)
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