終章 沢木と人美 ― Sawaki & Hitomi
ロサンゼルス時間、八月三十一日、木曜日、午前十時。ロサンゼルスの郊外に居を構えていた人美の両親のもとへ、愛しい我が子からの手紙がやって来た。
人美の母、康恵は手紙を握り締めると夫の会社へと車を飛ばし、人美の父、哲司のオフィスに入ると「あなた、人美から手紙ですよ!」と大声で叫んだ。
お父さん、お母さんへ
二人とも元気にしてますか? そちらの暮らしにはなれましたか? 私はとても元気にしてますし、白石さんの家での生活は、わが家のように快適でリラックスできます。おじさまも、おばさまも、二人いる家政婦の人たちも、私にとてもよくしてくれます。
さて、今年の夏は、私にとって忘れることのできない貴重なものとなりました。
ひとつは、新しい発見がありました。でも、このことはとても不思議な、信じられないようなできごとなので、秋に二人が帰って来た時にゆっくりと話したいと思います。その時に、二人がどんな反応をするのか分かりませんが、素直に理解してくれることを願っています。
もうひとつは、すばらしい人たちとの出会いがありました。それには白石家の人々も含まれるのですが、特別なのは沢木聡さんという男の人です。誤解しないでくださいね、恋愛がどうとかいうことではありません。沢木さんはおじさまの会社の人で、三十二歳で、独身で、葉山に住んでいて、とてもきれいな恋人?がいます。実は、ひとつめの発見に関していろいろな事件が起こったのですが、それを乗り越えることができたのも、沢木さんのおかげなのです。沢木さんは頭がよくて、というより想像力のある人で、感性の豊かな人です。そして、沢木さんの周囲にいる人々も個性的です。きれいな恋人?の秋山さん、不思議な存在の渡辺さん、そうした多くの人たちと出会うことができました。
それからもう一つ、彩香との友情も深められました。彼女の個性的な想像力は私を励まし、深刻な問題でも、時には楽観的な考えが必要なんだ、ということを教えてくれました。やはり彩香は最高の友達です。そして、沢木さんと同じく、彼女の助けがなければ、この夏を乗り越えることはできなかったと思います。
最後にもうひとつ。私は今考えていることがあって、それは、アメリカに行くのはやめようか、ということです。まだ決めたわけではありませんし、お父さんとお母さんとも相談しなければいけないことだと思います。でも、今の私にとって大切なことは、アメリカに行くことよりも、この夏出会った人たちとの関わりを深めることや、そうした人たちから何かを学ぶことにあるように思うのです。せっかく出会った友人と、あと半年たらずで別れてしまうのは、とてももったいないように思えるのです。
とにかく、今度会った時には話すことがたくさんありますから、その時を楽しみにしています。では、くれぐれも身体を大切に、危ない地域には行かないように。
人美
父は手紙を読み終わるとオフィスの窓際に立ち、ロサンゼルスの町並みを見つめながら、娘が一つ大人になったような、たくましくなったような、そんな実感を胸に抱いた。そして、やがては独立し、自分の人生を歩んで行くのだと、何かさびしいような思いに駆られた。しかし、娘は元気そうだし、希望に満ち溢れている。発見とはおそらく超能力のことであろうが、彼女はそれに臆することなく、前進しようとしている。父、見山哲司はロサンゼルスの青い空を見上げながら心の中でつぶやいた。
沢木さん、ありがとう
八月二十六日付の各新聞社の夕刊、及びテレビのニュースは、相模重工沢木聡の拉致事件を大きく報道した。報道の内容は、主犯は国際的テロリストの鮫島守であり、彼を含め二人のテロリストがSOP第三小隊によって射殺され、一名は仲間割れにより殺され、残り一名が現行犯逮捕された、というものだった。いずれの報道にも、沢木と一緒に見山人美が拉致されていたという事実は見当たらなかった。また、里中涼がSOP総括委員会に提出した公式の報告書にも、その事実が記載されることはなかった。
里中は、この事件にはもう一つの隠された事実が存在し、それを解く鍵は一人の少女にあると確信していた。しかし、その事実にまで言及することは、おそらく少女にとって好ましくなく、SOPが関与することでもないであろうと判断し、それを公にすることを避けたのだ。だが、一個人としては、その真実に高い関心を持っていた。
テロリストの生き残り―眼鏡の男は、里中から執拗なまでの取り調べを受けたが、完全黙秘を続け、この事件の背後に存在する巨悪を追及するまでには至らないまま、書類送検された。また、相模重工に対するテロ警戒体制も解除され、SOP第六小隊は相模重工川崎工場から撤収した。
星恵里は通常任務に戻り、里中、西岡のコンビは、巨悪に迫るべく地道な捜査活動を再開した。
一九九五年九月十八日、相模重工総合技術管理部内に沢木直轄の新しい部署が設置された。ASMOS開発のための付属機関と称して設置された意識科学研究室は、この夏にその存在が実証されたサイ・パワーを専門的に研究する部署であり、その室長には桑原久代が就任し、アドバイザーとして松下順一郎も名を連ねた。そして、沢木と人美の信頼関係のもと、彼女の持つ力の研究が開始された。
これより前、沢木拉致事件の際に負傷した渡辺昭寛と進藤章は、同じ病院の同じ病室で入院生活を送っていたが、後遺症が現れることもなく無事退院することができた。しかし、入院中進藤の他愛のない話しを聞かされ続けていた渡辺は、「これでは頭が変になってしまう」と、医師から退院許可が出る前に情報管理室の仕事に復帰した。
渡辺は、相模での仕事は番犬のようなものだ、とマイナス思考でいたのだが、この夏の出来事に直面し、自分にもまだやることはある、と新たな目的意識を持ち、特に意識科学研究室の機密保全に関しては、細心の注意を持って職務にあたった。
また片山広平は、エクスプロラトリー・ビヘイビア計画で得た貴重なデータをもとに、PPSの性能向上のために研究を開始し、十一月には同棲中の恋人と入籍し、また、結婚式を行うと発表した。
岡林敦は師である沢木の指導のもと、ASMOSを始めとするソフトウェアの開発に従事し、また、彼のライフワークでもあるゲームソフトの製作に打ち込む日々を送り始めた。
白石会長はそのほとんどを自宅で過ごし、本社に出向くことは余りなかったが、健康状態は以前として良好で、とりわけ精神状態に関しては、人美の存在のためか、平静かつ健全そのものだった。
こうしてエクスプロラトリー・ビヘイビアの夏は過ぎていった。一人の少女への疑問から始まったこの夏の出来事は、多くの人々の思想や意識に変化を生じさせ、また、人々の出会いをもたらす結果となった。そして、この後に沢木や人美に訪れる、あるいは周囲の人々―彩香や渡辺、里中や星たちに訪れる、知と勇気が試される冒険の数々を乗り越えるための土台となるのだった。
八月三十一日、木曜日、人美の夏休み最後の日。午後から白石邸のプールで遊んでいた見山人美と泉彩香は、日が落ちてきた午後五時ごろ、プールサイドの椅子に座り、家政婦の橋爪が作ってくれたチョコレートパフェを食べながら話し合っていた。
彩香が言った。
「あーあ、でもショックー」
人美が尋ねる。
「何が?」
「だって、私の寝ている間に大事件が起きるなんて……」
人美は呆れ顔で言った。
「またそれ」
「だって、見たかったんだもん。SOPが突入するところとか、人美のパワーが炸裂するとことか…… きっと、それを見ていたら凄い刺激になって、とっても凄い小説が書けたろうになぁ」
「もう、だめな人。私は怖かったんだから」
「でも、結果的に助かったんだからよかったじゃない」
「人ごとだと思って」
人美が頬を膨らますと、彩香は小さな微笑みを浮かべた後に言った。
「でも、本当によかった。人美がもとの人美に戻って。やっぱり人美は元気じゃないとね」
「彩香のお蔭よ。今回はいろいろ助けてもらったから」
「今回“も”、でしょう」
人美は笑いながら答えた。
「そうねぇ、そうしときましょう」
「ところでさぁ、今後の展開はどうなるの?」
「展開?」
「だって、沢木さんも人美のパワーを知ったわけでしょう。あの人は技術者なわけだし、超能力の実体を研究するとか、そういう刺激的なことはないの?」
「ああ、そのことなんだけどね、沢木さんがいろいろと考えてくれてるの。それで、沢木さんが一番強調してることは、パワーを使うことで私の身体に害がないかっていうことなの。そういうことを防ぐためにもある程度の研究が必要だって」
「んー、それには私も賛成だわ。ほら、いろいろな職業病っていうのもあるわけだしさ」
「別に私は超能力者を職業にする気はないけど」
「でも、これから人美は愛と正義のために闘うわけだから、そのためにも万全な体制でいないとね」
「彩香はどうしてもその路線でいって欲しいのね」
「ええ。だって、私の書き始めた今度の小説は、超能力を持つ少女のお話なんですもの。もちろんモデルは人美よ」
「モデルになるのは構わないけど、ちゃんと最後まで書いてね」
「ええ、今度は大丈夫よ。構想はかなりまとまっているから」
「へえー、具体的にどんな話しになるの」
「じゃあ、特別に教えてあげよう。まず、一人の女の子がいてね、その娘には超能力があるの。でも、悪者と闘うとか、そういうことじゃなくてね、ごくごく普通のお話なの。例えば、友達の飼っている犬が迷子になっちゃって、その犬を超能力を使って探すとか、そんな感じなの。そして、私が一番主張したいことは何かというと、超能力なんて特別凄い力じゃなくて、誰もが一つくらいは持っている得意なことの一つなんだっていうことなの。だってさあ、人美がどんなにパワーを使ったって、会長みたいに大きな会社を作れるわけじゃないし、沢木さんみたいにいろんなものが創れるわけでもないじゃない。主役の女の子はね、最初は自分のパワーに戸惑い悩むんだけど、段々そういうことが分かってきて、そして、自分が決して特別なんじゃないってことを確信するの。まあ、こんな感じね」
人美は彩香の感性の魅力を再認識すると同時に、間接的に自分へのエールを送ってくれているのだと思い、幸せな気分になった。しかし、余り誉め過ぎると彩香はすぐに調子に乗ると思い、こう言った。
「んーん、何かとても面白そう。それに、主役の女の子に共感できそうだわ」
「そうでしょう」
「でも彩香って不思議な人ね。賢いのかおバカさんなのか分からないもの」
彩香はパフェをテーブルに置くと、人美の腕をとってプールへと投げ込んだ。その後、日没近くまで白石邸のプールからは黄色い歓声があがり続けたのであった。
続く…
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