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2010年4月10日土曜日

小説『エクスプロラトリー ビヘイビア』(48)

 絶え間なく続く不安といらだちの中で、彼女の心臓はその重さを増し、まるで異物が体内にあるかのようだった。が、彼女はそれを必至に耐え、最善をつくし、その結果相模のスタッフを効率よく調布飛行場に送り出すことができた。関係機関への連絡が一段落した今、彼女は沢木のオフィスの彼の椅子に座り、闇の中に静まり返った横浜港を眺めていた。そして、これまで続いていた緊張がいくらか緩むと、暗く悲しい気持ちが立ち込めてきた。 オフィスのドアが開くと、両手にコーヒーカップを持った片山が入って来た。彼はその一つを秋山に差し出した。
「ありがとう」
 秋山は両手でカップを受け取ると、再び夜景に視線を戻した。片山は言った。
「何だよ。今にも泣き出しそうな顔だな」
「……」
「君は強い人なのに…… 好きなんだな、沢木のことが」
 秋山は膝の上に運んだコーヒーカップに視線を落とすと、小さな声で答えた。
「ええ。でも、ずっと片思い……」
 それは痛々しいくらいの声音だった。
「そんなことないさ。あいつだって君のことが好きなんだよ」
 片山は、視線を下げたままの秋山を見やりながら続けた。
「秋山、一つヒントをやろう。沢木が君と話す時、自分のことを何と呼ぶか。俺の知ってる限り、その一人称は君にしか使わない」
 一人称? 私、俺、僕…… 僕?
 秋山は立ち上がり、片山に向き直って言った。
「片山さん。私、追浜工場に行ってもいい?」
「行ってどうなるものでもないよ」
「ええ、分かってます。でも、側にいたいんです」
 片山は“やれやれ”というような顔で答えた。
「仕方ない、ここは俺が引き受ける。行っておいで」
「ありがとう」
 秋山が小走りにオフィスを出て行くと、片山は沢木の椅子に座り、夜景を見ながら一人つぶやいた。
「全く、世話のやける二人だよ」


「サメよりシャチへ」
「こちらシャチ、どうした?」
「犬どもに囲まれた」
「どんな犬だ」
「三番だ」
「支援しようか?」
「いや、こちらで何とかする。しかし、最初の手はキャンセルだ」
「分かった。無理するなよ」
「心配するな。サメは不死身だ」
 無線連絡が途絶えた後、橋本は深い溜め息を一つ吐き、田宮石油会長の田宮総吉へと連絡した。
「鮫島がしくじりました」
「そうか」
「私としては支援してやりたいのですが」
「何をバカなことを。しくじった奴のことなどほうっておけ、しょせん奴は消耗品だ」
 橋本が自動車電話の受話器を置くと、彼の運転手兼ボディーガードの男が尋ねた。
「どうします、戻りますか?」
「いや、このまま出港時間まで待とう」
 橋本は心に決めた。例え鮫島が来なくても、大和丸が出港するまではここで待とうと。


 鮫島が橋本に連絡するために事務室を出ている時、長髪の男の獣のような目は人美の身体に注がれていた。そして、男は人美に近づいて行った。
 沢木は人美をかばうようにして立ち上がり、男に向かって言った。
「何だ」
 男は沢木に「どけっ!」と怒鳴りながら彼の脇腹に足蹴りをいれた後、人美の腕を掴むと「こっちへこい! かわいがってやる」とにやけながら言った。人美は男の手を振り解こうと「放してっ!」と言いながら抵抗したが、男の握力は異常なまでの強さだった。沢木は男に体当たりし、転んだ男の傷口を足で踏みつけた。男は「うわーっ!」と叫びながら猛烈な勢いで立ち上がり、沢木をソファに突き飛ばすとMP5を構えた。引き金は引かれる寸前だった。その時―

 風が吹いた―

 それは、静かな流れだった―
 人美が「だめーっ!」と叫んだ瞬間、空気が動き出した。そして―
「うわぁーっ!」―長髪の男は喉が張り裂けるかのような叫び声をあげると銃を落としてその場に立ち尽くし、身体全身を小刻みに震わせ始めた。顔は真っ赤になり血管が浮き出て、傷口からは「シュッ、シュッ」と時折微量の血しぶきが上がった。
 沢木は人美を見た。それは始めて見る怒りの表情だった。そして、彼女の前髪は風によって小さくなびいていた。
「人美」
 人美は沢木の呼び声に怒りを静めた。
 風が止んだ―
 鮫島と傭兵たちが駆けつけて来ると、長髪の男は身体を硬直させたまま後ろに倒れた。「てめーら、何しやがった!」
 太った男がそう怒鳴ると、鮫島が叫んだ。
「やめろ!」
 眼鏡の男が長髪の男の脈を取る。
「生きてる」
「手当してやれ。デブ、お前は外を見張ってろ」
 鮫島はこの時思っていた。
 さっきの風は何だ


 コンピューターのモニターを見ていた里中は、今起こった事務室の中の出来事をつぶさに見ていたと同時に、笠谷小隊長に突入のゴーサインを出した。しかし、事態の収集を見て取るとそれを中止させ、鮫島に電話した。
「里中だ。飛行機の手配ができた、午前五時十五分に着陸させる」
「よし、分かった」
「人質は無事だろうな。取引のルールは守れよ」
「当然だ」
 切れた電話機を耳に当てたまま、里中はしばらく考えた。
 男の動きが止まったのはなぜだ。倒れたのは?…… 何があったんだ


 沢木と人美は寄り添うようにして再びソファに座っていた。
「ごめんね、怖かったろう。私がもっと強ければ……」
 沢木がそう言うと、人美は遠くを見据えたまま答えた。
「私が怖いのは、いつだって自分自身よ」
「どういう意味だい?」
「見たでしょ。さっきのは私がやったの」
 ついに告白を受けた沢木の心臓は高鳴った。
「どうやって?」
「超能力、っていうのかしら。私には特別な力があるの」
「なぜ怖い? 身を守るために使った力じゃないか」
「ええ、確かに。でも、殺してしまうかも知れない。自分ではコントロールできないの」
「いつから力を?」
「最近、だと思うけど」
 人美は沢木を見つめて言った。
「ねえ、沢木さん」
「なんだい」
「私のことが、怖い?」
 沢木は笑みを浮かべながら首を横に振り、優しい声音で答えた。
「君のことが怖いわけないだろう」
 人美は笑みを浮かべると、沢木の胸に顔を沈めた。
「沢木さんは彩香と同じことを言うのね」
「誰だい? 友達?」
「ええ、親友よ」


 多くの特殊部隊では、隊員たちに射撃や格闘技などの戦闘技術のほかに、特殊技能を最低一つは身につけさせるように訓練している。例えばSOPには、爆発物、化学兵器、情報分析、通信、医療のスペシャリストが存在し、これにより部隊全体の能力値を高めている。
 鮫島と行動をともにする三人の男たちは、皆かつては何らかの特殊部隊またはゲリラ部隊にいた人間たちであり、眼鏡の男は医療技術を、太った男は爆破技術を、長髪の男は通信技術を修得していた。
 荒い息をしながら事務机の上に横になっていた長髪の男は、眼鏡の男から治療―止血とモルヒネの投与―を受けていた。鮫島は、長髪の男がこの処置により、脱出までの間生きながらえることを望んでいた。そして、どうせ死ぬのなら、自分が脱出するために役立って死んでもらわなければ、支払った報酬の元が取れないと考えていた。


 里中は当初、鮫島たちが飛行機に乗り込むために外へ出て来たところを急襲しようと考えていた。しかし、決戦の時はそれより早まるかも知れない、という直感から、13部隊にいつでも作戦行動に移れる体制を指示した。これにより、星がいる第一班と第三班は資材倉庫の屋上に身を潜ませ、第二班は一階の階段下に、第四班は非常階段の下に、第五班は事務室の真下に、それぞれ移動した。
 そんな中、午前三時四十分、秋山の乗ったインテグラが追浜工場に到着した。正門の前には何人かの警官が立ち、パトカーと救急車が回転灯を輝かせながら停車していた。彼女が警官に声をかけてからしばらくすると、西岡が出迎えにやって来た。そして、彼の案内でSOPの指揮車へと向かった。
 指揮車の中に入った秋山に渡辺が声をかけた。
「やっぱり来たか」
「ええ、心配で」
 里中が言った。
「渡辺さんが育てた優秀な部下たちが問題の解決にあたっています。どうか彼らを信頼してやってください。期待を裏切ることはないはずです」
 秋山は取り敢えずうなずいた。そして、渡辺の横に座ると闇の中に浮かぶ資材倉庫に目をやった。
 沢木さん、戻って来てね


続く…

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