総合技術管理部の秘書室で、片山とともにいらだちと不安の時を過ごしていた秋山のもとに、渡辺からの電話が入ったのは午前二時五十分のことだった。彼女は海老沢社長に連絡し―海老沢は本社へ向かう車の中でこの知らせを聞いた―エアステーションの使用許可を得たものの、大きな障害を一つ取り除かなくてはならなかった。それは、相模重工所有のエアステーションが駐機されている調布飛行場の運用時間が、午前八時三十分から午後四時三十分であるということだった。飛行機を一機飛ばすためには、管制塔を運用し、しかるべき手続きと準備を行わなければならないのだ。彼女は白石会長に連絡し、彼の政治力に期待した。
連絡を受けた白石は、彼にとって大切な二人の人物のために最善の努力を果たした。その結果、既に招集していたSOP総括委員会と、叩き起こされた運輸大臣の措置により、調布飛行場をエアステーションが飛び立つまでの間、その運用を相模重工に任せることが決定された。
これを受けた秋山と片山は、沢木組の航空部門のスタッフ九名を、川崎工場のヘリで調布飛行場へ送り込むことを決めた。また、この事態を聞きつけた航空宇宙事業部長の宮本誠は自分の部下に招集命令を出し、調布飛行場へ向かわせた。このことにより、飛行場施設の運用及び機体の整備を行うに十分なスタッフが調布飛行場に送り込まれ、午前四時四十分に眠気眼のパイロットが飛行場に着いたころには、エアステーション1はいつでも飛べる体制に準備されていた。
しかし、こうした相模の行動とは裏腹に、SOP総括委員会が現場の指揮権がある里中に伝えた命令はこうした内容だった。早期のうちに強行突入し、テロリストを排除せよ。そして結び言葉は、失敗は許されない、だった。委員会の連中の言うことはいつもこうであり、里中を始めとするSOPの隊員たちのいらだちの原因となった。だが里中は、SOP総括委員会に言われるまでもなく、鮫島に空の散歩を楽しんでもらう気も、沢木と人美にスカイダイビングを楽しんでもらう気もさらさらなかった。彼は鮫島が飛行機に乗り込もうとした時に、一気に勝負をつけるつもりだった。
鮫島は、自分の出した要求に対する返事がなかなか返ってこないことにいらだっていた。そして、午前三時を過ぎたころ、そのいらだちの矛先を沢木に向けた。
「相模は何をしてるんだっ!」
この時、人美は沢木に寄りかかって眠っていた。
「大きな声を出すのはやめてくれ、彼女が起きるだろう。それに、飛行機を飛ばすのにはいろいろと手続きが必要だ。タクシーを呼ぶようなわけにはいかないんだよ」
鮫島は憮然とした表情で言った。
「気に入らん。貴様はなぜそんなに落ち着いている。たいていの人間なら殺すと言われれば、泣き叫びながら命乞いをするものだ」
沢木は穏やかな口調で答えた。
「さあ、自分でも分からないね。しかし、ただ一つだけ確かなことは、私はお前たちのような人間に命乞いなどする気はない、ということだ」
その言葉を聞くと、鮫島は沢木の正面のソファに腰掛けた。
「ふふっ、さすがは日本の頭脳とまでいわれるだけの男だ、立派だよ」
「尋ねたいことがあるんだが」
「何だ」
「お前は何のためにこんなことをするんだ。理想のためか、それとも金か」
鮫島は懐からタバコを取り出し、火をつけた後に答えた。
「まあ、いくつか理由はあるが、一つは金であり、一つは報復だ」
「報復? 一体何の」
「腐った人間たちへさ―堕落した資本主義社会の豚どもに、恐怖を思い知らせてやるのさ」
「お前はコミュニストなのか?」
「この俺にイデオロギーなど関係ない」
「ではどういうことだ」
「貴様は今の日本の人間たちをどう思う? 平和に、幸せに、明るく楽しく、そんなふうに暮らしているように見えるか? 俺に言わせれば、奴らは目先のことしか考えていないのさ。何を学でもなく大学で暇をつぶし、大した能力もなく就職する。そして、一部の“できる”連中に寄生して給料泥棒をしてるのさ。お前の部下に、お前ほど稼げる奴がいるか? いやしないだろう。どいつもこいつも、ほとんどの奴らが寄生虫なんだ。そんな男たちがバカな女と結婚し、生まれた子供がまたでき損ないだ。街を歩いている若い連中を見てみろ。女はみんな娼婦の予備軍で―その娘だってそうさ」
鮫島は人美を指差して言った。
「この娘はそんなじゃない」
「そして、男はそのけつを追っかけ回す盛りのついた豚さ。そんな連中がまた結婚し子供を生めば、この世は劣性遺伝子で埋め尽くされてしまう。結局この日本の連中は、悦楽に支配され、悦楽を求めるがままの人生をただ生きながらえているのさ。日本だけじゃない、アメリカもヨーロッパの国々も、先進国とは名ばかりで、物質的豊かさの中で人間が本来あるべき姿を失っているんだ。俺はそんな連中が許せない。だから、俺は世の中をだめにした連中に報復するのさ」
沢木は鮫島の言うことに、少なからずうなずくところがあった。
「なるほど。しかし、暴力によりそれを主張すれば、結局犯罪にしかならない。そして、何も変わらない。そうだろう?」
「ある日本の国粋主義者はこう表現したことがある、肉体言語、と。第一、俺は“変えよう”などとは考えていない。だめになったものを破壊するだけだ」
「だめの判断はお前の価値観に過ぎん」
「ふふっ。まあ、貴様のようなものを創る世界にいる人間には分からんことだ。破壊、殺戮、混沌、そんなものを見続けてきた俺にしか分からないことだ」
「だろうな」
「お前は何を思って生きている」
「さあ、何だろう? そうだな、過去の夢の惰性かも知れない」
「惰性?」
鮫島はその答えを以外に思った。この手の男は、野心に満ちていると想像していたからだ。
「貴様もつまらぬ男だな」
「お前ほどじゃないさ」
「口の減らない男だ。ところで、その娘は何だ? お前の女か?」
沢木は薄い笑みを浮かべながら言った。
「いや、彼女はアリスさ」
「アリス?」
「そう、不思議の国のアリスさ」
それを聞いた鮫島は、鼻で「ふっ」と笑うと沢木の前から立ち去った。
寝たふりをして二人の会話を聞いていた人美が沢木に尋ねた。
「沢木さん」
「やあ、目が覚めたかい?」
「さっき言ってた、過去の夢の惰性ってどういう意味?」
沢木はにこりと微笑み、「聞きたい?」と尋ねた。
「ええ。だって、意外な言葉だもの」
沢木は静かな溜め息を吐いた後に語った。
「かつて、私には同じ夢を見られる人がいた。しかし、その人は私を残して遠くに逝ってしまったんだ。私だけが夢の中に取り残されたんだよ」
「それじゃ、沢木さんは仕方なく夢の中にいるの?」
「すべてがそうではない。しかし、夢は二人で見たほうがよりよいものだと私は思うよ」
「そういう人はいないの?」
「んー、どうだろう?」
人美は力強く言った。
「いるわよ、絶対。沢木さんにはいると思うわ」
「……」
「沢木さんの側で、沢木さんのことを想って、同じ夢を見てくれる人がいるわよ。私には分かるの、ずっと前からその人は沢木さんを大切に想ってくれてるわ」
この時、沢木は人美が秋山の肉体を通じ、メッセージを送ってきた時のことを思い出した。
「どうして人美さんに分かるの?」
「それは……」
それは人美自身にもどこに根拠があるのか分からない発言だった。しかし、彼女は沢木を見守る優しい影を感じ取っていた。
「いや、いいんだ。君らしい言葉だ、ありがとう」
続く…
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