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2010年2月26日金曜日

小説『エクスプロラトリー ビヘイビア』(36)

 徐々に光が差し込んできた。少しずつ、また少しずつ、彼はまぶたを開けていった。後ろ姿の女がおぼろげに見える―シニヨンと白いリボン。沢木はやっと悪夢から開放されたことを知った。そして、安堵の気持ちとともに再びまぶたを閉じ、安らかな眠りについた。
 秋山は沢木の眠るベットの横で、花束を花瓶に挿していた。そして、それを沢木の枕元に置くと、彼の額に慈しむように手を当てながら、優しくささやいた。
「沢木さん、お大事に」
 彼女はそう言った後、病室を出ようと一歩足を踏み出した。と、その時、彼女の手を握るぬくもりがあった。彼女は沢木のほうに向き直り言った。
「沢木さん?」
 沢木は眠っていた。しかし、その手は秋山の手をしっかりと握り締めていた。彼女はもう片方の手で彼の手を包み込み、ベットの横の椅子に腰掛け、ずっと見守っていてあげよう、と思った。
 ―数時間の後、沢木は再び目を覚ました。彼の右手は柔らかく温かな感触に包まれていた。そして、ほのかに香るシニヨンと白いリボンの香り。見ると、秋山は沢木が横になるベットに顔を突っ伏して眠っていた。
 かわいい人だ
 沢木はそう心の中でつぶやくと、点滴の管がつながれた左手の人差し指で白いリボンをはじいた。「ふわぁー」と大きなかわいらしいあくびをしながら目覚めた秋山は、「あっ!」と目の前にある沢木の顔に驚きながら、慌てて大きく開いた口を手で覆った。沢木が笑みを浮かべ、か細い声で「おはよう」とささやくと、秋山はほっとして笑みを浮かべた。だが、笑顔は長続きせずに泣き顔へと変化し、彼女は涙ぐみながら沢木の手を頬に当てた。彼の手の甲にはひと滴の冷たくも温かな水滴が流れた。
「よかった、本当によかったぁ」


 こうして沢木が意識を取り戻した八月十七日、木曜日の午後一時過ぎ、病室のベットに横たわる彩香は、軽い頭痛を感じながらも徐々に彼女本来の姿に戻りつつあった。顔の血色はよくなり、唇も愛らしいピンク色に染まってきた。そして、ベットに横たわりながら手鏡で自分の顔を映し、包帯に巻かれ頭の髪型を、盛んに気にするまでに精神も安定してきていた。午前中まで側についていた父と二人の姉、白石千寿子は既に帰宅し、母と人美の二人が彩香に付き添っていた。
 彩香は母に「ちょっと二人で話しがしたいんだけど」と言い、それを受けた母は外へと出て行った。
「人美、もっと側においでよ」
 病室の隅で小さく固まって座っていた人美に彩香は優しく声をかけた。人美はそれに従い、ベットのすぐ横の椅子に腰掛け不安げな表情で言った。
「彩香、大丈夫? 痛くない?」
「平気よ。このくらいの怪我なんて、大したことないわ」
「本当?」
「ええ」
「一体何があったの?」
「私にもよく分からない…… とにかく、見た事実だけを話すと……」
 彩香は自分が目撃したことを話して聞かせた。
「どうしてそんなことが!?」
「さあ? でも、一つの可能性としては―人美、あなたには何か特別な力があるのかも知れない」
 人美は一呼吸の間を開けてから言った。
「超能力とか?」
「そうかも知れない。昨日起こったことは普通のことでは説明できないもの」
「だとした、彩香が怪我をしたのは私のせい」
 彩香はかぶりを振りながら言った。
「そんなことないわよ、悪いほうにばかり考えちゃだめ」
「だって……」
「人美、“共時性”の話しだけどさあ、まんざら的外れでもないような気がしてきたの。そして、この不可思議な出来事の謎を解く鍵は、あの沢木さんという人にあると思うの」
「会ってみるべき?」
「うん。そうすれば何か道が開けるんじゃないかなぁ」
「そうね、そうかもね」
 それは心細げな声音だった。
「人美、一人で平気?」
「ええ」
 彩香は人美の手をしっかりと握り締め、今言える精一杯の言葉を口にした。
「人美、しっかりね。勇気を出して」
「ありがとう、彩香」


 臨死状態から蘇生により蘇り、およそ十四時間に渡る意識喪失状態から目覚めばかりの沢木だったが、意識は徐々にしっかりとした状態へと回復していった。しかし、昨夜ベットに入ってから目覚めるまでの記憶は空白状態にあり、自分が現在いかなる状況に置かれているのかを、把握するまでには至っていなかった。だが、不安な気持ちはなかった。なぜなら、自分の手をしっかりと握り締め、頬の温かなぬくもりを伝えてくる女性―秋山の存在が、彼に深い安堵の気持ちを与えていたからだ。
 秋山は涙をハンカチでぬぐった後、沢木の意識が戻ったことを医師に伝えるべく、ナース・ステーションへとつながるインターホンのスイッチを押した。
 しばらくすると、沢木の蘇生を担当した外科医が看護婦を伴ってやって来て、彼の診察を開始した。秋山は気を利かせて病室を出ようとしたが、手を握り合う二人の姿を見た医師は、「どうぞ奥さん、側にいてあげてください」と彼女に言った。その言葉は秋山に戸惑いを与える一方、胸をときめかせるものでもあった。意識が回復したとはいえ、何らかの後遺症や精神的障害が危惧される状態にある沢木を目の前にして、自分は一体何を考えているのだろう。そんな思いがすぐさまその“ときめき”を打ち消したが、その時秋山は、この一瞬のときめきこそ、何にもまして自分の気持ちを素直に表しているという実感を覚えたのだった。愛してる―単純な言葉だが、しかしこれ以外に言葉はない。今まで想っていたようなある種のあこがれや夢、そうした幻想的なものではなく、実感としての愛情を、彼女はこの時初めて沢木に感じたのだった。
 医師は沢木に簡単な質問を始めた。
「話しはできますか?」
「ええ」と沢木は息のような声音で答えた。
「あなたのお名前は?」
「沢木聡」
「生年月日は?」
「六三年五月、二十五日」
「こちらにいる女性はどなたですか?」
「秋山さん」
 医師は自分の勘違いに気づいた。そして秋山に、「あっ、失礼。奥さんじゃないんですか。でも……」と、そこで言葉をやめにやりと笑った。秋山は無言でうつむいた。
 医師は質問を続けた。
「下の名前は?」
「美佐子さん」
「そうですか、お奇麗な人ですね。恋人ですか?」
 余計なことを言う医師の言葉に、秋山は火を吹きそうになった―恋人っ!
「同僚です」
 沢木の答えに秋山はがっかりした。しかし、それが事実だから仕方がない。でも、沢木さんは私のことをどう思っているのだろう? 彼女の思考回路は混沌としていた。
「そうですか、意識ははっきりしているようですね。ところで、昨夜何があったか覚えてますか?」
「いいえ、覚えてない……」
 医師は交通事故に遭って病院に運ばれたこと、危機的状態から蘇生により蘇ったこと、怪我の状態などを沢木に話して聞かせた。沢木はその説明を受けながら、医師の胸元でキラリと反射している聴診器、海から吹く強い風によりガタガタと音を発する窓ガラス、これらから車のサーチライトや寝室のガラスが割れたことなどを断片的に思い出していった。 医師はさらにこう続けた。
「実に不可解なんですよ、あなたが病院に運び込まれた時の容体は。まず、車に跳ね飛ばされたにも関わらず、それにより負ったと思われる外傷は右大腿部の打撲のみで、CTスキャンやレントゲンによる検査でも、骨や内臓器、脳の損傷は全くありません。唯一外出血を伴う外傷は、何とも不可解なガラスの傷のみ。少々深めの傷ですが、さほど長くはかからず完治するでしょう。まあ、そんな容体なのですが―つまり、心臓が停止するような状態とは思えないのですが、あなたの心臓は停止し蘇生を要した。これは非常に―いや、何とも奇妙でして―まあ、事故のショックからということもあるのかも知れませんが、何ともはや、実に不可解です……」
 医師は説明の最中でいくつかの質問を沢木に浴びせたが、彼の答えは首を横に振るか「記憶にない」の一言だった。医師はいぶかしんだようすをみせながらも、質問が尽きたところで病室を後にした。
 この時、既に沢木の断片的な記憶は全体像を知ることができるまでに復活していた。そして、彼の思考回路も徐々に本来の性能に戻りつつあった。
 沢木は秋山に言った。
「僕の家の寝室の状態を見て来て欲しい」
 これに応じるまでもなく、秋山は渡辺からの報告を聞いていた。
「既に渡辺さんが立ち寄っています。寝室の窓ガラスが割れて、部屋の中もかなりの散らかりようだったそうです」
 沢木は天井を見つめながら「そう」と一言言い、そして思った。
 人美だろう、きっと。手加減してくれたようだ
 秋山は沢木に何があったのかを尋ねたかったし、昨夜の白石邸での出来事も話したかった。だが、今に見て取れる沢木の状態は、それに耐えうるものではないと判断し、ひとまず白石邸に戻り、沢木の状態を皆に報告する一方、今後をどう対応するかを検討しようと考えた。
「私は一旦みんなのところに戻ります。沢木さんの無事を報告しないと。それと、自宅のほうの後片づけもしておきますから。夕方にはまた来ます」
 秋山はそう言い、沢木のか細い「ありがとう」という返事を聞くと、彼とつないでいた手をそっと放し病室を出て行った。
 沢木は誰もいなくなった一人部屋の病室で、昨夜の悪夢を最初から順番に思い出していった。
 なんて夢だろう。でも、見事だった。あそこまで俺の潜在的な恐怖を引き出すなんて。もう怖いものなど何もないと思っていたのに
 そして、今は亡きかつての婚約者、水野美和のことを想い始めた。

続く…

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