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2010年2月11日木曜日

小説『エクスプロラトリー ビヘイビア』(31)

 午前十一時半ごろ、沢木と秋山、松下の三人は、横浜市戸塚区にある国立横浜病院を訪れていた。この病院には松下の医師時代の後輩―友人でもあり教え子でもある―が勤めているため、秋山の精密検査を依頼したのだった。
 松下は医師免許を所持し、なおかつ現役時代はかなり優秀な医師として名を馳せていた―だからこそ沢木の目に留まったのだ。したがって、秋山の検診を彼が行うこともできるのだが、そのための設備というものが今の彼にはなかった。しかし、初歩的なチェックは彼にも行うことができた。病院に向かう赤いハイラックス・サーフの車中―それは沢木の車であり、彼が運転し、秋山は助手席に、松下は後部席に着いていた―で、松下は秋山に以下のことを質問した。めまい、耳鳴り、手足の冷え、震え、動悸息切れ、食欲不振、睡眠障害など、精神的ショックを一原因とする自律神経失調症の症状が出てはいないかと。ほかにもいくつかの質問を秋山に浴びせたが、彼女の答えはいずれもノーだった。
 秋山は昨夜沢木と寿司屋に行った時の会話の中で、自分は大丈夫だからと検査を拒み、愛らしい笑顔とそれに似合わぬ旺盛な食欲で身の健全さをアピールしたのだが、「念のため、ねっ」という沢木の一言で、検査を受けることを承知したのだった。
 彼女が受けた検査の主なものは、CTスキャンによる頭部断層撮影と、脳波賦活法といわれる脳波の検査である。脳波賦活法とは、脳波を採るための電極を左右対称に取り付け、横になり安静を保った状態で刺激(光や音による)を与え、それに起因して発生した脳波の種類や発生頻度を観察することにより、脳内部に潜む異常を発見しようとするものである。脳腫瘍、脳の損傷、脳内出血などの病気は、異常な脳波となって現れる。
 神経外科の診察室が並ぶ廊下のソファに腰掛けて、検査の終了を待っていた沢木と松下のもとに、後輩医師が結果を持ってやって来た。松下は診察結果が記されたカルテを後輩から受け取り、それをぱらぱらとめくり切った後、異常はどこにもないと沢木に伝えた。ほっとした沢木が思わずタバコに火をつけようとして、医師に「ここは禁煙ですよ」と注意されている時、秋山は彼らのもとに会心の笑みを浮かべながら戻って来た。大丈夫と思ってはいても、やはり一抹の不安は彼女にもあった。何しろ、過去には精神錯乱を起こした者もいるのだから、多分、人美の力で…… 
 松下は、「私は彼と昼飯に行くから、君たちは二人で仲よくしてくれ」と意味ありげな笑みを浮かべながら二人に別れを告げた。残された沢木と秋山は、何となく気まずいような、そんな心境でしばらく黙って立ち尽くしていた後、沢木のワンパターンの誘い文句で状況を打開した。
「よかったね、何ともなくて。さて、僕らも食事に行こうか」
 秋山は自分を誘うことに関して芸のない沢木のことを、この人は私に食べ物さえ与えておけばいいと思ってるのかしら、と少しばかり不満の気持ちも持っていたが、それでも彼女にしてみれば、彼と一緒に過ごせる時間―しかも仕事以外で―は、幸せを感じる時の一つだった。
 秋山が沢木に好意を持つことは、沢木組では周知の事実であり、多くの者が、何で二人の関係はいつまでたっても今以上の発展をしないのだろう、といぶかしんでいた。岡林が今年四月に入社した新人の女性に語った解説によると、「あの二人の関係は中学生レベルの恋愛関係だよ。いやー、違うな。今の中学生はもっと進んでるから、小学生レベルだな」とのことだった。また片山は、「問題は沢木にあるんだよ。あついがいつまでも過去の出来事を引きずってるからいけないんだ。中途半端じゃ秋山がかわいそうだよ」と同棲中の恋人に語っていた。さらに白石会長は、「男と女はなるようにしかならん。わしは賭けてもいいが、あの二人はいずれは結婚するぞ。わしの目に狂いはないんじゃ」と妻の千寿子に語っていた。
 こうした周囲の意見の信憑性はともかくとして、沢木と秋山の微妙な関係―互いに好意を持ちつつも、沢木には過去の悲しい出来事がトラウマとなり、自分自身の気持ちを素直に表現できなく、秋山には自分からアプローチするだけの勇気がなかった―は、彼らが出会った五年前の春からずっと続いているのだった。実に歯がゆい、ある意味ではプラトニックな、しかし、切ない恋の物語かも知れない。もうほんの少しの勇気を二人が持てば、今以上の幸せを築くことができるだろうに……
 沢木は秋山をハイラックスに乗せ、国道一号線を一路西へ―彼女の住むマンションがその方向にあるため―走らせた。
「さて、何が食べたい?」
 ハンドルを握りながら沢木がそう尋ねると、秋山は「んー、何がいいかなぁ」といつものように顔をほころばせながら思案した。なんだかんだと思ってみても、やはり彼女は食べ物に弱かった。そして、それが彼女の人生における楽しみの重要部分であることを、沢木はよく心得ていた。
 沢木組の七不思議の一つは、食通の秋山がどうやってプロポーション―身長一六三センチ、体重四五キロ―を維持しているのだろうか? ということだった。
 平日、秋山は午前六時半に起床する。彼女は独り暮らしだったが、自分のためにしっかりと朝食―もちろんパンではなくご飯である―を作り、それを食べてから七時四十分ごろに家を出る。会社に着くと、始業の鐘が鳴るまでの間はコーヒーを飲みながら新聞を読んで過ごし、仕事の合間にもよくお茶を飲んでいた。昼食は必ずといっていいほど沢木と一緒に社員食堂へ食べに行くのだが、食の細い沢木と比べると、彼女はその倍も食べているような印象を受ける。そして残りの昼休みは、お茶を飲みながら沢木か秘書室の女性たち―二十五歳と二十三歳の女性。秋山を含め三人の女性が沢木の秘書を務めている―とおしゃべりし、午後三時の休憩時間にはお菓子をつまんだりしていた。五時半に終業の鐘が鳴ると退社して、帰宅途中で晩ご飯の献立を考えながらスーパーで買い物をする。そして、再び自分のためにご馳走を作り、それを時間をかけてゆっくりと食べる。さらに、九時ごろにはビデオで映画を見たり、本を読んだりしながらケーキや〈ミスタードーナッツ〉などをつまみ、十一時ごろベットに入るという生活だった。
 出無精である秋山は、休日も自宅で過ごすことが多かったが、こと食べ物に関してはその限りでなく、友人と“おいしい店”の探索に出掛け、気に入った店を発見するとそれとなく沢木に報告し、「じゃあ、行ってみようか」と彼が誘ってくれるのを期待していた。また、食べ物の研究にも余念がなく、料理関係の本を買っては“料理の腕”を磨いていた。
 そんな彼女自身が述べた七不思議への回答は、「私は食べても食べても太らない体質だから」と、多くの女性がうらやむような答えだった。
 秋山の希望によりそば屋に入った二人は、ともに天ざるを食べながら会話をしていた。「それにしても、今年の夏の暑さは異常ですよね。沢木さん、暑いの弱いから、身体には気をつけてください」
 沢木は毎年夏になると、ただでさえ細い食がさらに細くなり、冷たいものばかりを口にして体調を崩すことが多かった。
「んん、ありがとう。この夏は忙しいからね、君も気をつけないと―」
 沢木はそばをつるつると食べる秋山を見て、にこりと微笑み言葉を続けた。
「もっとも、その食欲が途絶えない限りは心配ないか」
 言われた彼女は「ええ」と微笑み、天ぷらに箸を伸ばした。
「君は本当に食べるの好きだね」
 彼女は箸を止めて答えた。
「だって、食べることは人が生きていくための基本ですよ。沢木さんももっと食べないと―今より痩せたら骨だけになっちゃいますよ」
 沢木は身長一七〇にして体重五三キロという、かなりスリムな体形だった。八年前まで六三キロあった体重は、ある出来事をきっかけに一〇キロ減り、以来そのままの体形が維持されていた。
「大丈夫、これ以上は痩せないよ」
 この何気ない一言には、もう最悪のことは起こりはしないだろう、という沢木の考えが含まれていた。なぜなら、自分はもう人を愛することはないだろうから、愛した人を失いはしないだろうから…… しかし、今目の前にいるこの女性―秋山のことを想うと、失った勇気と力と情熱―彼は人を愛するためにはこれらのものが必要だと考えていた―を取り戻さなくてはいけないのかも知れない、とおぼろげに思うのだった。
 沢木は視線を秋山の顔からそばの載ったざるに移し、強引と思われる量のそばを箸で掴むと、それを口の中にほうり込んだ。が、むせた。
「そんなに頬張るから」
 秋山はけらけらと笑いながらそう言い、沢木は口にハンカチをあてがい堰き込みつつも、彼女に笑みを返した。
「ところで沢木さん、これからどうするんですか?」
 沢木はハンカチをズボンのポケットにしまいながら答えた。
「人美さんのこと?」
「ええ」
「そうだねー、んー」
 沢木はしばらくの間を開け言った。
「実はね、直接行動に出てみようかと思ってるんだ」
「直接行動? まさか人美さんに会ってみよう、っていうんじゃ?」
「そのとおり」
 秋山は溜め息を一つ漏らした後に尋ねた。
「会ってどうするんです?」
「具体的なことはまだ考えてないんだ。でもね、彼女のもっと内面に迫らなければ、彼女の持つ力の確信は見えてこないと思うんだ。それに、彼女自身がどう考えているのか。つまり、サイ・パワーの存在を自覚しているのかいないのか、その辺のところは彼女に聞かないことにはどうしようもないだろう」
「そうかも知れないですけど、危険度は高まるんじゃ…… 第一、沢木さんに心を開いてくれるかどうか、難しいことですよ。何しろ女の子は微妙ですからね」
「大丈夫、君のアドバイスがあれば」
「警告されたというのに、随分楽観的なんですね? 彼女の力に太刀打ちできますか?」「さあ、どうだろう。しかし、一つだけ言えることは、彼女は悪魔でも魔女でもない、十八歳の女の子なんだ。同じ人間ならば理解し合うことができるはずだ」
「沢木さん」
 秋山は真剣な顔をし、沢木のほうに身を乗り出して言った。
「十八の女の子だから怖いんですよ」

続く…

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