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2010年2月5日金曜日

小説『エクスプロラトリー ビヘイビア』(30)

第三章 ブラッド・アンド・サンダー ― Blood And Thunder


 八月十六日、水曜日、午前十時少し前。テレビ画面ではギターを持ったエディがにこにこと微笑み、画面の外では彩香がギターのリフに身体を揺らしながら、ワープロのキーを叩いていた。彼女はバン・ヘイレンの、中でもギターリストのエドワード・バン・ヘイレンの大ファンであった。彼女は今、彼らのライブ・ビデオを横目で見てはワープロを打ち、また見ては打つという、ながら作業の真っ最中だった。
 彩香がワープロで打っているのは小説であり、去年の誕生日に父親にねだってやっと買ってもらったワープロは、彼女の夢への掛け橋だった。なぜなら、彼女の将来の夢は小説家であるからだ。幼いころから空想好きな少女であった彩香は、童話の中のしゃべる動物たちやテレビ・アニメの魔法が使える女の子、ミッキーマウスにトムとジェリー、さらにはテレビゲームのRPGなど、そうした創造物に恋い焦がれ、夢中になりながら育ってきた。
 そんな彩香が初めて出会った小説は、小学四年の時に読んだ『赤毛のアン』であり、彼女はこの作品に感銘し、主人公に共感を抱いた。そして、想像するということがどんなに素晴らしいことかを発見し、自分はものを創る人間になろう―そうだ! 小説家になろう!―と夢見るようになったのだ。中学生になってから恋愛感情という未知の心と出会った彼女の創造力はさらに増強し、大学ノートにたくさんの短編小説を書きまくった。ファンタジー、メルヘン、SF、ホラーなど、どの作品にも彼女のユニークな発想と独特の恋愛観が存在し、人美曰く、「彩香には才能があるわ」と言わしめる作品群だった。また、そうした作品の多くは、彼女自身の精神世界を反映した“一人称で語られる主人公の私的世界”が印象的なものだった。ワープロを手に入れた去年の十二月十三日からは、初の長編の創作にとりかかっているのだが、なかなか思うようにはかどっていない。「これだっ!」と思って勢いに任せて書き始めたストーリーも、プリントして客観的に読むと短編の時のような冴えがなく、「これじゃぁ、ただ長いだけだわ」と迷い悩んでいるのだった。しかし、彼女はそれを楽しみ、心はいつも創作欲に満たされていた。
 曲と曲との合間を縫って、愛犬のエディの鳴き声が聞こえてきた。窓から外をのぞき込むと、人美が門のところに立っている姿が見えた。
 艶やかな毛並みを持つゴールデンレトリバーのエディに吠えられていた人美は、何度も訪問した親友の家にも関わらず、中に入るのをためらっていた。エディがこんなに激しく彼女に吠えるのは、これが初めてだったからだ。
 もう! どうしちゃったのよ。私のこと忘れたの?
 人美がそんなことを思いながらまごついていると、「エディっ! 静かになさい!」という彩香の叱り声が飛んできた。見上げると、窓から身を乗り出した彩香が手を振りながら「おはよう」と笑顔で迎えてくれた。主人に叱られたエディはやっと静かになったのだが、その目は人美のことを警戒するかのような鋭い眼差しのままだった。もしもエディが口を利けたなら、親しい彩香にこう語っただろう。
〈あの娘には怖いくらいの力があると思うんだ。どんな力かって? それは僕にも分からないさ。でもね、彩香や普通の人たちにはない力なんだよ。僕の直感に間違いない、動物的感ってやつさ。そして、その力はあの娘の知らないところでいろんなことを引き起こしてる。もうじき目覚めるよ、彼女の力が、きっと……〉
 エディが何を考えているのか人美には知る由もなく、おずおずと玄関へと進み、家の中へと入って行った。
 彩香の部屋に入った人美は電源の入っているワープロを見て、「小説書いてたの?」と言いながらベットに腰掛けた。
「よくできるわよね、ながら作業」
 彩香はテレビとビデオの電源を落としながら答えた。
「だって、このほうが集中できるんだもん」
「変なのー」
「そう言われてものねー、長年やってきたことだから」
「それで、今度はどんなお話なの?」
「今度はSFよ。ちょっと自信あるんだ」
「この前ホラーを書いてる時もそう言ってたわよ。一体いつになったら初の長編は完成するの?」
 彩香はおどけた口調で答えた。
「んんー、難しい問題ね。私も完成品を早く読んでみたいんだけど、何せ書いてるのは私だから、とほほほだわ」
 人美は笑みを漏らした。
「ところで彩香。エディ、今日機嫌悪いのかなぁ?」
「ああ、そうみたいね。利口そうに見えても結構おバカさんだから、人美のこと忘れて吠えたのかもよ。最近来てなかったじゃない」
「ひどい言い方。でも、そうなのかなぁ? 私に敵意を持ってたみたいだけど」
「気にしない気にしない―」
 言いながら彩香は悪夢の件を思い出した。
「気にしないと言えば、夢、どうなったの?」
 人美の顔はたちまち不安げな表情へと変わり、うつむきながらぼそぼそと答えた。
「それなのよ、問題は…… また始まったの、同じ夢の上映が……」
 彩香は人美の横に寄り添うように座って尋ねた。
「全く同じ夢なの?」
「ええ、同じよ」
「不思議、何でだろう?」
「白石のおばさまに話したらね―ほら、長浜に遊びに行った時、変な人たちに襲われたじゃない。あれが原因なんじゃないかって」
「んー、そうね。突然怖い夢を、しかも同じ夢を繰り返し見るなんて、何か原因があってもいいものね」
「んん。ほかに思い当たることもないし、自分でもそうかなって思うんだけど…… でも、彩香はそんな夢見てないでしょう?」
「うん。でも、おかしなものよねー。だって、私はあの時人美より遥かに怖がってて、それに比べたら人美は勇敢だった。なのに人美は悪夢にうなされて―最もそれが原因とは言い切れないだろうけど」
 彩香はふさぎ込む人美を何とか元気づけようと言葉を続けた。
「ねえねえ人美、悩んでたって始まらないんだし…… もしも不安だったらまた泊まりに行ってあげるから、ねぇ。とにかくなるべく楽しいことを考えることよ。それでだめならカウンセリングを受けるとか、とにかく解決の方法はきっとあるだろうし、永遠に悪夢が続くなんてあり得ないでしょう?」
 人美は顔を上げ、視線を彩香に合わせて答えた。
「うん、ごめんね心配かけて」
「いいのよ、そんなこと」
「ねえ。じゃあ、今日泊まりに来てくれる?」
「うん、いいよ。実をいうとね、私会長の家気に入ってるの」
 彩香は白石会長のことを“会長”と呼ぶ。
「それに、会長も私に会いたいだろうからね!」
 人美は彩香の心配り―何とか元気づけようと努めて明るい口調でものを言い、笑顔を浮かべる姿―に答えるべく、笑顔を作ろうとした。その時、もう一つのテーマを思い出した。
「ああ、それとね。もう一つ気になることがあるの」
「何?」
「昨日違う夢を見てね―男の人と話しをしている夢」
「やっぱり怖いの?」
「んーん、逆。ほっとする感じなの」
「へぇー、知ってる人?」
「んーん、知らない。でも、優しそうな顔で、話し方が柔らかくて―会話の内容は覚えてないけど…… でも、名前は分かるの」
 彩香は不思議そうな顔をして尋ねた。
「どうして?」
「その人が名乗ったから、そこだけ覚えてる」
「ちょっと不気味ね。で、なんていうの?」
「サワキサトシ」
「サワキ? どっかで聞いたことがあるような気がするなぁ」
「本当?」
「んん。芸能人じゃないし、小説家でもないし、スポーツ選手? 違うなぁー。でも聞いたことがあるような…… ないような……」
「……」
「ああっ!」
 彩香は叫び声とともに本棚の前に滑り込み、一番下に入れてある雑誌を物色し始めた。人美もその横に座り込み「分かったの?」と声をかけたが、彩香は思い当たった人物の捜索に忙しく、その心当たりを彼女に披露している暇はなかった。何冊めかの雑誌のページを開いた時、彩香の手は止まった。彼女が今手にしているのは、高名な物理学者のニールス・ボーアにちなんで名づけられた科学情報誌『ボーア』であり、彼女は小説のアイデアを得る資料と銘打って、それを毎月買っていたのだ。
「もしかして、この人?」
 彩香はページを開いたまま『ボーア』を人美に手渡し、そして見て取った。人美が一瞬息を飲むのを。開かれたページには、『制御システムの未来―EFCの可能性』と題した沢木のインタビュー記事と、彼の写真が掲載されていた。
 人美はぽつりと言った。
「そうよ、間違いないわ」
「人美、この人のこと会長から聞いたことあるの?」
 人美はいぶかりながら答えた。
「どうして? ないわよ」
「だって、この人は会長の会社の人よ」
「ええっ! そうなの!?」
「んん、とっても賢い人でね。そうね…… そうそう、ジャンボジェットの制御装置とか、んーと…… とにかく機械を操る仕組みを作ってる人なのよ。この道じゃ世界的に有名なのよ」
「そうなんだぁ。でもなんで私の夢に……」
「本当に聞いたことないの?」
「ない」
「そうか、聞いたことあるなら夢に出てきてもよさそうだと思ったんだけど」
「でも、顔までは分からないじゃない」
「んん」と彩香は考え込み、ややあってから言った。
「じゃあさあ、こうゆう推理はどう? つまり、この人は有名な人で、結構マスコミにも登場してる人なのよ―NHKの技術もののドキュメンタリーとか。きっと、そういうのを何気なく見ていて、顔もはっきり見ていたの―意識はしてなかったけど。そして、相模重工の会長のところに居候した。それと潜在意識の中の記憶とが重なって夢の中に現れた―んん、完璧!」
 彩香はパチリと手を打ち言葉を続けた。
「これで一件落着よ」
「そうね、それならつじつまが合うかもね」
 彩香は誇らしげな表情をしてうなずいた。
「でもさあ彩香? 私、今の今までこの人のこと知らなかったのよ。本当なのかな?」
「本当も何も、それ以外説明のしようがないじゃない。夢って突拍子ないとこあるから」 人美は深い溜め息を一つ吐き、一応の納得をしようとした。と、突然彩香がまた叫んだ。
「ああっ!」
「今度は何!?」
「人美の怖い夢に男の人が出てくるじゃない、その人の顔分かる?」
「分からないわ、はっきりと見えるのは腕だけなの」
「声は? 振り向いちゃだめだぁー! っていう声はこの人とは違う?」
「どうだろう、それも分からない」
 彩香は想像力に身を任せるがままに口を動かした。
「私はね人美、今閃いたのよ。その人は沢木っていう人じゃないかって。人美を怖い夢から救ってくれるのはきっとこの人なんじゃない」
「まさか、ちょっと突飛過ぎない」
「そんなことないわよ。正夢とか予知夢とかっていうのもあるんだし、私がこう思ったこと自体がその兆しなのよ」
「小説家っぽい発想ね」
「私は真面目よ」
「ごめん、ごめん」
「だってさあ、怖い夢に登場する人は人美を助けようとしてるじゃない。そして、現実にも人美は悪夢に怯えている。そこへ今度はほっとする夢。しかもそれは優しそうな男の人が現れる夢。男の名は沢木聡、会長の会社の人。ばっちりだわ」
「そう言われるとそんな気もするけど……」
 すっかり自分の世界にいってしまった彩香は、人美の両肩を掴んで言った。
「あのね、人美。この世の中には“共時性”というものがあるのよ。共にする時間と書くんだけど、それはね、それぞれが別々に思える事柄も、つきつめてよく考えていくとある一つの答えに向かって行ったりとか、互いに関連し合ったりしながら存在するということなの。しかも、ただ単にそうなんじゃなくて、なんて言ったらいいかなぁ?」
 彩香は再びパチリと手を打った。
「そう! ミラクルなのよ。それを“共時性”というの。人美の悪夢、会長の家への居候、沢木さんの夢。これは“共時性”で説明できるわ」
「“共時性”ねぇー」
「もっとも、これはクライブ・バーカーが小説に書いたことの受け売りなんだけどね―正確には私の解釈かな」
「彩香」
 人美はぼそりと言った。
「今日の彩香はいつにも増して冴えてるわ。段々そんな気がしてきたもの」
「でしょう」
「で、“共時性”があるとして、その答えは何なのかしら?」
 人美の質問に対して彩香は「んー」と考え込んだ後、「どうしたらいいかな?」と疑問を投げ返し、「私ってだめよね、詰めが甘いのよ。長編が完成しないのもきっとこのせいね」と口を尖らせて反省した。それを受けた人美は笑わずにはいられなく、「だめな人」と言って吹き出した。
 荒崎で初めて悪夢のことを打ち明けた時もそうだったし、今までに何度か遭った辛いことを話した時もそうだった。いつも最後は彩香に笑わされてしまう。彼女と話すと元気が湧き出て笑みがこぼれてくる。だから、人美は彩香のことがとっても好きだった。
「もう、だめな人はないでしょ!」
 言いながら彩香も一緒に笑い、やっと出た人美の笑顔に少しほっとした。
 人美には“元気”という言葉がよく似合う。ボーイッシュで活力に満ち、夢や創造について語る彼女はきらきらと輝いて見え、それは彩香のファンタジックなものの考え方を刺激し、創造力を掻き立てる原動力となっていた。それは例えばこんなことだ。自分の書いた小説を誰かに読ませると、「面白いね」とか「つまらない」という言葉がまず返って来る。まあ、これは初歩的感想であるからよいとして問題はその先だ。どう面白いのか? どうつまらないのか? それをはっきりと自分の言葉で語ってくれるのは、彩香の知る限り人美しかいない。彩香が自分の作品について知りたいことは、単なる賛否や評論家気取りの感想ではなく、わたしはこう感じました? ということなのである。創造により生み出されたものには普遍的な価値はなく、個々人の価値観が存在するのみだ。だからこそ、“あなたが感じたこと”を、言い替えれば“あなたの価値観”を知りたいのだ。彩香が人美を好きな理由、“心の友”と賛美する理由はここにある。
 その笑いをきっかけに、二人の話題は先のテーマを離れ、無邪気な少女の会話へと変わっていった。もちろん二人の脳裏の不安や疑問、恐怖が吹き飛ばされたわけではなかったが、特別意識するでもなく明るい話題へと自然に転じていった。少女たちの精神は、傷ついたり、怯えたり、戸惑ったり、苦しんだりしても、それらを自然に打ち負かそうとするだけのエネルギーに満ち溢れていた。

続く…

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