小説『エクストリーム センス』は笹沼透(Satohru)の著作物であり、著作権法によって保護されています。無断で本小説の全部または一部を転載等利用した場合には、民事罰や刑事罰に問われる可能性があります。
「いよいよ出発だ!」
そう言うイム・チョルに、昨日までとは別人のような身なりのユン・ヨンがほほ笑んだ。キム・ウォンは、「日本進出の記念写真だ。パクも入って!」と言ってはしゃいだ。パク・ジファンは「お前たちは本物の観光客だ。誰も疑わないよ」と言いながらカメラのフレームに収まった。
7月23日、金曜日。イムたちを乗せた日本行きの水中翼船は、10時ちょうどにプサン港を出港し、およそ3時間の航海の後、12時55分に福岡市の博多港国際ターミナルに到着した。
13時26分。デスクで仕事をしていた里中涼の内線電話が鳴った。かけてきたのは同じフロアに隣接するICC(統合司令センター: Integrated Command Center)を仕切る情報部長の真田薫(さなだ かおる)警部だった。里中が顔をICCに向けると、こちらを見つめる真田と目が合った。
真田はICCの開設と同時にやってきた情報分析の専門家であり、近代情報戦では欠かすことのできないSOPの戦力となっている。その彼女は36歳。里中と同じキャリアであり、冷静な分析力と強気な姿勢を併せ持った人物として知られている。
「報告事項がありますのでこちらへ」
その言葉に里中は捜査部の居室を進み、一段高くなったICCへの階段を登り切ると真田に言った。
「どうしたの?」
「本日13時1分、フォートップスから注意人物の入国アラートがあがりました」
フォートップスとは、Facial Recognition Type Pursuit Systemの略、FRTPSからきた顔認識型追跡システムのコードネームである。日本国内に設置された監視カメラの映像は、テロ対策法によって設置されたフォートップスの端末により解析され、登録された人物を検出するとSOPのICCにアラートを送るようになっている。
里中が「見せて」と言うと、ICCの中央ディスプレイにパク・ジファンの顔写真と、博多港国際ターミナルの監視カメラが捉えた静止画像が表示された。
「博多港、コリアンからの入国か。アラート理由は?」
「パク・ジファンは元OUアーミーに所属し、HMG-2の射手(しゃしゅ)をしていた経験があります」
里中は10日前のミサイル強奪情報を思い出した。
「なるほど、そこと紐付いたのか」
「追跡しますか?」
「そうだね、念のため追跡しよう」
「では、サインを」
フォートップスを利用して個人を追跡するためには、捜査部長である里中の許可が必要だった。、そのため里中は真田の差し出したスレートPCを使って電子追跡の書類に電子署名した。これでアラート以後のパクの追跡が可能となる。里中は指示した。
「最新情報を出して」
「13時16分。福岡ナショナルホテル前の防犯カメラの映像です。次がホテルの受付です」
二つの映像にはパク以外に二人の男と一人の女が映っていた。
「んーん、男三人と女一人で観光かぁ…… よし、この三人もフォートップスに登録して追跡してくれ。何か動きがあったら教えてね」
15時に会う約束をした渡辺昭博が、沢木聡のオフィスに入ってきた。渡辺はソファに腰掛けると、早速用件を話し出した。
「岡林を取材している杉本美花という記者について調べてみたが、なかなかの苦労人だ」
沢木が尋ねた。
「ほう、どんな?」
「両親が6年前に交通事故で亡くなってる。以来、6歳年下の妹の親代わりだ。しかもその妹は難病を患っている。視床下部過誤腫という病で、脳にある腫瘍によって障害が出る病気だ。けいれん、吐き気、めまい、言葉を話せなくなることや突然死の可能性もあるらしい」
「妹さんは幾つです?」
「19」
「若いのにかわいそうに…… 治療方法はあるんですか?」
「手術すれば治るそうだ。しかし、その施術ができる医者は今のところ一人しかいない」
「海外ですか?」
「そうだ。渡米して治療するためには40万ドル必要だそうだ」
「そんなに……」
「あの女には注意した方がいい。金が必要なやつの常識は変化する」
「というと、詐欺とかスパイとか?」
「まあ、そんなところだな。用心に越したことはないだろう」
「分かりました。情報ありがとうございます。岡林にはそれとなく私から注意しておきます。また何か分かったら教えてください」
そこへ秋山美佐子がコーヒーを持って入ってきたが、渡辺は次の用があると言ってオフィスを出て行った。秋山はソファに座ると渡辺に出すはずだったコーヒーを自分に、もう一杯を沢木の前に置き、渡辺との会話を尋ねた。
「あの記者さんにはそんな事情があったんですね」
秋山はコーヒーを一口飲んだ後に続けた。
「で、もしスパイだとしたらどうします?」
「そうね、ひとつだけかな」
「何です?」
「人美さんの情報だけは気をつけないと。後は別にどうでもいいさ。僕らの技術を盗んだところで、僕らを超えることはできないからね」
沢木はニコリと笑った。
「相変わらず余裕ですね」
「20年かけてるからね。おいそれと他人にまねできるはずないさ」
「となると、取材変更の申請はOKですか?」
「んん、今の段階で断る理由はないさ」
この後、沢木はインダストリアル・ニュースのWebサイトにアクセスし、杉本が書いた記事を読み直してみた。よく勉強している。丁寧な取材で、技術を伝えるだけでなく、そこで生まれる人間ドラマや問題点に迫りつつ、常に技術や技術者に対する敬意が払われている。いい記事だ…… 沢木はそう感心した。そして社内システムにアクセスし、広報・IR課から出されている取材許可の書類に電子捺印(なついん)した。
16時。里中涼はパクたちの動向をICC(統合司令センター)の真田薫に尋ねた。
「パクたちはどこを観光してる?」
「博多からJRで海の中道(うみのなかみち)へ移動し、水族館で4人とも一緒です」
中央ディスプレイに監視カメラが捉えた映像が分割して映し出された。それは、パクたちの泊まるホテルの監視カメラ、街中の監視カメラ、駅、施設など、ありとあらゆるところに設置されたフォートップス端末付き監視カメラにより実現された映像だった。
「おお、いいじゃない。ちゃんと観光してるね。ライブ映像は出せる」
「やってみます」
真田は水族館の監視カメラ映像をICCでダイレクトに受信し、フォートップスの識別結果をリアルタイムで表示させた。中央ディスプレイには、水族館でイルカショーを楽しむパクたちの姿が映る。
「んん、楽しそうだ。で、パク以外の三人の身元は分かったかなぁ」
「まだです。OEC刑事警察機構、OUアーミー情報局などにも情報提供を呼びかけていますが、まだ回答はないです。これだけ照会に時間がかかるということは、北朝鮮の出身者かも知れません」
「OK、分かった。引き続き追跡を頼む」
パク・ジファンは旧大韓民国の一般的な家庭に育ったので、旅行や娯楽などはそれなりに経験している。子供のころには、本当の観光で福岡に来たこともある。対して朝鮮統一後も貧しい暮らしをしていたイム・チョル、ユン・ヨン、キム・ウォンの三人にとっては、異国の地の見聞とは驚きと発見、感動の連続だった。イルカが芸をするのはテレビで見たことがあったが、ライブで見るイルカショーは迫力があり、イルカの持つ芸は彼らの想像を超えていた。
イムはふと仲間たちに目をやった。横に座るユンが手をたたいて喜んでいる。キムはデジカメを忙しそうに操作している。平和だと思った。こんな日がずっと続くようにしなくてはならない。そうだ、自分はそのためにこの勝負に出たんだ。何としてもやり遂げて、残りの金を手にしなくては…… イムは決意を新たにした。
ユンは、ついこの前までは貧しくともイムと一緒に生きられるのならそれ以上に望むものはないと考えていた。何度も死のうと思った少女時代、それから比べれば北朝鮮崩壊後の生活は十分なものだと思っていた。しかし、イムが大金を手にし、高級料理店で食事をし、生まれて初めておしゃれをし、こんな風に観光というものを楽しむと、たった12日間の出来事が自分の価値観に大きな影響を及ぼしていることを実感した。仕事がうまくいけば新しい人生を築ける。そう信じて、いや、そうするためにイムを支えよう。例えそれを他人が罪と呼ぼうとも。ユンもまた、覚悟を新たにしていた。
17時42分。仕事を終えた岡林敦が本社ビル1階のセキュリティゲートを抜けると、彼のスマートフォンがメールの着信を知らせた。
お疲れ様です、杉本です。長期取材の許可が出ました(^^)v。これで岡林さんの活躍をしっかりと世の中に伝えることができます。お祝いしませんか?
ヤッターっ! 岡林は即座に返信しようとしたが、今度は電話が着信した。
「何だよ、仕事か?」
見ると杉本美花からの着電だった。
「もしもし、今メールの返信をしようと思ったところです。しましょう! お祝い!」
「よかった。実は、もうすぐそばにいるんです」
岡林が辺りを見回すと、エントランス・ホールの隅で手を振る杉本の姿を見つけた。
およそ30分後、みなとみらいのドックヤードガーデンにある牛肉料理店で、二人は食事をしていた。その席での杉本は、取材延長の申請が通ったことを心から喜んでいた。
岡林は杉本の容姿はもちろんのこと、ジャーナリストとして自分に興味を持ってくれたことや、ハキハキとした率直な物言い、女性ならではの仕草や精神的な側面に夢中になっていた。もともとほれっぽい性格の彼ではあったが、これまで彼が接してきた女性たちは、ソフトウェア工学などの彼の得意分野について興味を示すことはなかった。しかし、この杉本という女性は、システム・エンジニアを目指したことがあり、今はソフト産業を専門に取材する記者だけあって、専門知識もありコミュニケーションにギャップを感じることは少なかった。しかも、仕事はそこそこがんばるが、プライベートは多少ルーズというようなところも共通であり、趣向などでも共有できるものが多かった。しかるに、岡林が杉本に対する気持ちにブレーキを踏む理由は一つもなかった。
食事を終えた二人は、桜木町の駅に向かってみなとみらいの美しい夜景の中を歩いていた。ちょうど日本丸のそばに来た時、杉本は日本丸に続く階段に腰掛けた。
「なんだかぁ、家に帰るのもったいない……」
そうつぶやく杉本の隣に座りながら岡林は尋ねた。
「どうして?」
「だって、このきれいな夜景と日本丸。夢の世界みたい。駅に着いた途端に現実だよ。何だかつまらないよね」
岡林は冗談っぽく言った。
「じゃあ金曜日だし、朝まで遊ぼっか!」
杉本は「いいよ!」と元気よく答えた。岡林は心の中でえっ?! と思いながらも、「酔ったんじゃない? だいじょぶ~」とふざけてみた。
「だって、岡林さんといると楽しいもん。何だか好きになっちゃいそう……」
「ええっ、誰を?」
「誰って」
杉本はわからないの? というような表情で岡林を見つめた。しばし見つめ合う二人…… 杉本は岡林のほほにそっとキスをした後に、息のような声音で言った。
「ここにはあなたしかいないでしょう」
その唇の動きはとてもセクシーだった。岡林は反射的に杉本の唇に自分の唇を合わせた。その瞬間、やり過ぎたかぁ? と思ったが、杉本の手が岡林の肩に掛かると、彼は杉本の肩に手を回した。
信じられない! こんなドラマみたいなことがあるんだ……
岡林はそう心の中で叫んだ。しかし、このドラマのシナリオは杉本によって書かれていたのだった。
職安のようなものはあるのだろうか? 履歴書は必要なのだろうか?
7月の初旬、そんなことを考えながら、杉本美花は川崎の風俗店が並ぶ街を歩いていた。すれ違う男たちのいやらしい目つき。ここで働くということは、こういう男たちを相手にすることだと思うと、悲しい気持ちになってきた。しかし、これまで多くのことを調べ、様々な人に相談し、思案に思案を重ねた結果がこれなのだ。今更迷ってなどいられない。彼女は辺りを見回し、比較的きれいなソープランドを認めると、深呼吸をしてから店へと歩みを進めた。
「やめときな。あんたの欲しいのはもっと大金だろ。こんなところで働いたって、たいしちゃ稼げないぜ」
男の声に杉本は振り向いた。
「誰?」
見ると180センチはありそうな、精悍(せいかん)な顔立ちの男がバリッとしたスーツ姿で立っていた。男は言った。
「あんたの妹を助けられる唯一の人間だ」
「ええ! なぜそれを!」
「あんた杉本美花だろ。ビジネスの話がしたい。ついて来い」
杉本はその誘いに躊躇(ちゅうちょ)した。
「安心しろ、あそこのファミレスだ」
男はそう言うとスタスタと歩き始めた。
妹を助けられる……? 杉本は男の後を離れてついて行った。
ファミリーレストランに入り、それぞれの前にコーヒーが来ると、男は静かに話し始めた。
「俺の名前は橋本、まあ何でも屋みたいなもんだと思ってくれ。あんたのことは知っている。妹が難病で、そのために40万ドル必要なんだろう?」
「なぜそれを?」
「あんたキャバクラで働いてたろう。苦労を愚痴ることもあったはずだ。そういう情報を俺は集めて、ビジネスをコーディネートするのさ」
「40万ドル、稼げる仕事があるというの?」
「ああ、あんたにぴったりの仕事だ」
「どんな?」
「あんたなら沢木聡を知っているだろう」
「相模重工の?」
「その通り。その沢木がエクストリームセンスといわれる新しいシステムを開発しているらしい。俺はそのシステムに関する情報が欲しい」
「沢木に近づいてスパイしろということ」
「話が早いな。しかしターゲットは沢木ではない。片腕のプログラマー、岡林敦という男だ」
橋本は上着の内ポケットから写真を取り出し杉本の前に置いた。
「俺が言うのも何だが、ソープでハゲやデブのおやじを相手にするよりはよっぽどましだろう?」
確かに、童顔で優しそうな顔の写真だった。
「あんたの顔とその体、キャバクラで身につけた男の操縦術。それらがあればこんな青二才、手のひらで遊ばせられるはずだ。どうだ、やってみるか?」
「本当に40万ドルもくれるの?」
橋本は給与振り込みに使っている口座の残高を確認してみろと言ったので、杉本はスマートフォンを使って残高情報を確認した。すると、
「はっ!」
杉本は息のような声を発した後、思わずスマフォをテーブルの下に隠した。
「1,000万アジア、前金だ。残りの3,000万アジアはあんたの働き次第だ」
杉本はしばし考えた。こんな男を信じていいのだろうか? でも、金の一部は既に自分の口座にある。ASMOSが巨額の利益をあげていることを考えれば、その情報を得るためにこのくらいの投資をすることは十分に考えられる…… そうだ、沢木がMITを卒業する時には、世界中の有名企業が何億という金をちらつかせて沢木を勧誘したという。それに、妹のためとはいえ、やはり体を売るのは最後の手段にしたい。この男一人なら、金のためと割り切って何とか自分を偽ることができそうだ。
「分かった。引き受けるわ」
橋本は笑って答えた。
「賢明な判断だ」
みなとみらいから岡林と杉本の二人はシティホテルに移動した。そして二人はベットに入ったのだが、岡林はその行為の最中もとても優しかった。短大にいる時は彼氏がいたが、妹を進学させるためにキャバクラで働き出すと、そのことがばれて彼氏とは別れた。以来4年近くボーイフレンドがいない暮らしの中で、25歳の杉本の肉体が性的な欲求に満たされることは一度もなかった。しかし、岡林との相性はいいようだった。久しぶりの快感は、杉本の体を震わせた。セックスを楽しみ、同時に妹を救えるのなら、こんないい話はないと杉本は思った。だぶん…… きっと…… そう信じながら杉本はシーツを握りしめた。
(続く……)
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